ひょっこりひょうたんの日誌

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死後の事 いくら考えても ボクの頭の中だけのこと  

五木寛之氏の「天命」という文庫本の28ページまで読んだ。「人が死を感じる時」の章である。

周りの人の死、有名人の死、死について卓越した人が述べた死生観、いろんな死についての著書やテレビ番組があり、それを見て感動しても……所詮、それは他人事である。いくら死についての勉強をしても、「己の死」にどうのように向き合うかは全く別物だ。己の死は、己にとって何を意味するのか。全くの「無」の世界になるのか。それとも「現世」を越えた「あの世」で行き続けるのか。何もない「無」と信じるのは寂しいもの。だから人は死後の世界を想像したがる。

でも、まったく自分が「無」になった途端、この地球上の出来事、2100年の世の中のこと、あるいは遠い未来の宇宙の消滅なんてことも、全く自分と関係なくなる。子や孫、あるいはその子の人生を知りたいと思っても、「無」になれば何もなくなる。生きている80年、90年より、生まれる前の時間、死んでしまった時間の方が圧倒的に長い。まさに人生何十年なんて泡沫の時である。

泡沫の命なれば、それを哀れんで悲しみながら生きていかなければならない。でも、実際は違う。どんなに肉親の死であっても、時が経てば全くなかったように生きていける。(もちろん心の重荷を背負っている場合もあるが……)人間、悲しいこと、つらいことは忘れてしまうから笑顔で生きていける。うまいように出来ているものだ。

さらに重要なことはもうひとつある。死後の自分の「有・無」については、空想だけの世界で考えられるが、死を迎えるまでの肉体的苦痛や心の平穏を保てるかどうかは、人間誰一人として自信が持てないのではなかろうか。それが、「他人事」の勉強では克服できない「私事」の辛さと思う。

まだ、この本の触りしか読んでない。深夜に読むと心の世界が広がっていきそう。ますま目が冴えてきた。こりゃヤバイ、明日も仕事なのに……
by hyocori-hyoutan | 2008-11-16 01:19 | ああ無常

マラソン雑学は一流、記録は二流、そしてランニングフォームは自己流の三流、しかし、マラソンと人生を結びつける哲学は特級です。飲む時は年を忘れて、酒なら何でも来い!飲んだ分だけ走らゃいいと思っています。


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