九州一周駅伝 幕閉じても 思い出に感謝
2013年 11月 09日そんな道の両側に人が押し寄せる、どうにか車1台が通り抜けていく、その後ろを選手が必死に走っていく。大きな声援が飛ぶ。「福岡がんばれ」「宮崎がんばれ」と…九州各県の一体感と県民意識が交錯する。何も刺激がなかった昭和30年代の頃には、駅伝応援はハレの日だった。
そんな子供の時の原体験がランニング熱を生み出していく。遊び場所は道具山神社だった。そこを起点に白山神社を経由する一周コース(350mくらい)が駅伝コース。それぞれ3人くらいで2チームに分かれて駅伝遊びだ。もちろん年齢差もあった遊びだったので、ハンディキャップをつけてレース開始。最初から飛ばす、そしてバテル。最後は歩くような感じで、タスキじゃない手タッチで次の子にリレーをしていく。何も遊び道具が要らないゲームだった。
でも小学校高学年頃からは、体力のなかったボクは、小学校、中学校のマラソン大会でもいい成績は収められなくなった。自分が走ることではなく、応援すること、見ることに熱中し始める。その頃は、花形選手は寺沢徹(クラレ)、中尾隆行(東急)、広島日出国(旭化成)等だった。毎年のように福岡国際マラソンで応援をした。その後、フランクショーターが出てきて、宗兄弟や瀬古の時代がやってきた。
そして、そのあとは自分が走るようになった、マラソンも走るようになった。人と比べて劣っていた体力も長距離だけは別だった。自慢じゃないがフルマラソン、2時間42分まで上り詰めた。今も走ることだけは続けて還暦を迎えてしまった。その原体験というべき「九州一周駅伝」の歴史が消えることは寂しいものだ。
by hyocori-hyoutan
| 2013-11-09 21:48
| スポーツに一言