ひょっこりひょうたんの日誌

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カテゴリ:読書( 7 )

9月も後半になった。現職を離れて半年、今はフルタイムからパートタイムの仕事に変わった。そのため、仕事が終わってルネサンスに直行して汗を流しても午後6時には家に着く。結構、自由時間は増えたのになかなか個人的な仕事は進まない。過去の膨大な写真の整理、ホームページのリニューアル。この調子じゃいつまでたっても進まない。先に寿命の方がやってきそうだ。

やはり期限を定めて取り組まなければいけない。それと酒の量でしょう。やる気になっていても焼酎が体に入ってしまうと、PC前に座ることなく、スマホで遊んでベッドで読書して終わりになってしまう。
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そうそう最近の読書量は大幅に増えた。今読んでいるのは百田尚樹氏の「永遠のゼロ」分厚い文庫本だが寝転がって読んでも楽しい。楽しいというか興味を持ってページをめくれる。まだ3分の1だ。久しぶりに読書後感想もブログにアップしよう。
by hyocori-hyoutan | 2013-09-23 07:40 | 読書
ジュンク堂に寄った時に積み上がられていた新書の中に「間抜けの構造」があった。ついピラピラとめくる。開いたページが映画の因数分解のページであった。映画監督としての北野武さんは、映画編集の際には不要なシーンはカットしまくる。間延びしないように、できるだけ観客の推理を働かせるようにしている。簡単にいえば、3人(3回)の殺人シーンがあれば、全部を撮るのではなく1回だけ見せて、あとの2回は死んだ顔だけ見せれば3人が殺されたとわかる。そのような撮り方が映画編集の「因数分解」である。
XA+XB+XC=X(A+B+C)となる訳だ。
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その他にも「間」の問題をいっぱい取り上げる。「間」は音読で「ま」、訓読で「あいだ」と読む。誰でも知っていること。そして「間抜け」を「あいだぬけ」と発音せずに一瞬のうちに「まぬけ」と読んで、意味は「あいだが抜ける」ことをさす。これは直訳で、意訳は「人と人とはコミュニケーションを図る上で、お互いを理解し合える微妙な間(何と訳すべきか…)が欠落している。今で言う「空気を読めない」ことを指す。日本人が日本人である証明は「間」が理解できるか、「間」の大切さを認識しているかどうかという。

漫才ではツッコミとボケ。これ掛け合いには「間」が必要である。間が狂うと結果は見えてくる。白けである。落語でも独特の「間」がある。「間」を観客の人と楽しみながら進めていく。スポーツの世界でも「間」はある。相撲の立会いは間を合わせる。野球のピッチャーとバッターは間を外すこと駆け引きだ。これらは、全て時間の間かもしれない。

ビートたけしは、更に空間の間についても言う。そして、人生の「間」はどんな影響を与えるのか、ビートたけしの実体験に基づいて更に深い意見が展開される。

これから先はボクの考えであるが、日本人は一般的に「間」で隠れた感情の表現ができる。だから静かに議論を出来、感情を表に出さずとも阿吽の呼吸で理解し合える。それに比べて、日本人以外、あるいは日本語以外は「間」があまりない。とすれば、「間」の代替手段として、ボディランゲージ、言葉の強さ、言葉の激しさで感情を伝える必要があるのかな。逆に日本人の曖昧さ、外国人にわかりづらい行動は、この「間」の影響かもしれない。

ともかく外国人にとって日本語は難しいが、その意味する「間」まで理解するのは本当に難しいこと。その難しい日本語を操る日本人は、日頃から一種の脳トレをしているとも言える。言葉は文化であることを、この本を読んで再認識した。
by hyocori-hyoutan | 2012-12-26 23:01 | 読書
三浦しをん著の「風が強く吹いている」を読んだ。箱根駅伝を目指す若者の物語だ。導入の部分はコンビニから菓子パンを盗む場面から入る。走(カケル)と灰二(ハイジ)の物語。もちろん、箱根駅伝が舞台だから、あと8人の選手が必要だ。個性豊かな8人が描かれている。
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場面は竹青荘(みんなの呼び名はアオタケソウ)に移る。10人の大学生が住む下宿、そして本格的な練習になったら陸上部合宿寮となるオンボロ宿舎である。箱根駅伝どころか、走ることとは無縁な8人である。そしてアオタケ荘の先輩であるハイジと新一年生のカケルが走ることでの結びついていくことで物語は始まる。そのうち、ハイジ先輩の箱根駅伝を目指そう!という一言で、この小説は本題に入って行く。走ることとは無縁な8人、走ることが大好きなハイジとカケルではあるが、それぞれ高校時代に走ることへの挫折を味わっている2人である。

順調に箱根駅伝目指せる訳がない。でもここが小説であり、箱根駅伝に出場しないとこの物語は進まない。だから、予選会では壮烈な戦いを繰り返し、何秒か小差で本選への出場権を得る。そして夢が実現した。でも本選への出場がゴールでないのだ。箱根駅伝は駅伝だから、来年への出場権をタスキリレーの末に獲得するのが最終目標になる。自分達だけの目標(ゴール)でなく、次の世代にどう引き継ぎするのかが大きな試練になる。そこには10人のメンバーそれぞれの思いに差が生まれるが、本選に向けて飛躍的に記録も伸びる。

この本のメーンは箱根駅伝を走る一区、一区の人間模様だ。ペース配分ではない。10人の箱根駅伝のメンバーは秒単位の争いをしているが、心はここまで来た歩みを筆者は描く。〇〇選手は、今、タスキを△△選手からもらいました……。これまでは当たり前であるが、一人ひとりの心の葛藤を描く。ボクもレースや駅伝を走ったことが多々あるが、本番中も同じようなことを思い描くことは多い。「ハレの舞台を思い描いていたが、今がハレ舞台だ。でも、俺ってよく頑張ったなー。ここまで来たものなあ。このまま最後まで頑張ろう!」そんな事を考えながら走る。だから走りながらの回想シーンは面白い。

小説中の箱根駅伝には、さまざまな大学名の学校が出てくる。まずは、主人公は寛政大学だ。多分これは法政大学から取った大学名だろう。動地堂大学は順天堂大学、甲府学院大は山梨学院大、ユーラシア大は亜細亜大、城南文化大は大東文化大だろう。妙に現実と小説の世界が繋がる。

そして、本選では見事、次年度の出場権を得る。現実的でない場面もあるが、小説だから突き進める面白さがある。好きだったのは、走ることの尊厳さを失わずに描き通してくれた筆者の筆力かな。素晴らしい!

そして、最後に筆者がブログで言っていたのは、東体大のカケルと同期の"榊"のこと。筆者「三浦しをん」が「榊の奥の深い描写が出来なかった」という悔い……。でも、榊は昔の陸上一筋の男であり、弱さと強さが同居した普通の男である。普通の男を存在感たっぷりに描くことも、これもまた難しいもの。
by hyocori-hyoutan | 2009-06-27 13:02 | 読書
「冬の喝采」黒木亮著を読み終えた。箱根駅伝が終わった頃にインターネット検索で本書のあることを知り、amazonに注文して届いたのは1月下旬であった。それから、ベッドに入ってからの寝る前のひと時を過ごすのに少しづつ読んでいた。
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内容は自伝的なランニング小説だ。北海道生まれの金山雅之(筆者の本名で小説の主人公)は中学時代から陸上長距離が大好きだった。中、高校と地元の学校の陸上部に所属していたが、肝心なインターハイの前には、脚の故障で満足の行く陸上生活は送れなかった。大学は早稲田に進学したが、大学1年間は故障上がりのために趣味程度のランニングしかしてなかった。でも、1年間の休養が脚の回復を生み出し、2年生からは早稲田大学競走部に籍を置くことになった。入部を許可されたのだ。

当時の早稲田大競走部は中村清監督の時代であった。同級生には瀬古利彦選手がいた。もちろん、金山にとっては雲上人であった。黒木(金山のペンネーム)の筆は、陸上競技のストイックさ、奥深さ、過酷さ……を選手だけが分かる視点で書き続ける。黒木は中学時代からの練習日記8冊を大切に保管していた。その積み重ねがあるから、日々のインターバル練習、ロードレース等が克明に記述するとともに、木々の色、風の匂い、土の香りが黒木の脳裏から再現されていく。ある意味では自伝書である。

でも自伝書と違うのは、監督(中村清)、マラソンランナー(瀬古利彦)が出てくることだ。

特に監督(中村清)の人間描写の迫力には一気にページをめくってしまう。自己陶酔型の性格、選手には人生をかけるほどの情熱を求める。練習の前の人生講話は1時間や2時間にも及ぶことがある。監督への忠誠心を求め、周りの人間全てへの感謝の気持ちを強く主張する。そのことへの反発する選手も多い。金山もその一人だった。理不尽な要求にも反抗することもできない。でも、それを上回るほどの人間としての奥の深さもあり、人をひきつける。

ボクがそんな環境であったら、とてもついていけない。大学3年の時は瀬古からタスキを受けて箱根駅伝を走り、4年生でも走った金山……一般入試での箱根駅伝選手は珍しかったのだ。そして、中村監督との確執や陸上選手としての逃げられない故障との戦いが克明に描かれている。そんな生活を逃げ出せばいいのに……と思うかもしれない。でも、そのストイックな生活は、感性を磨き続ける。だからその葛藤は心地よいものだろう。

ボクも市民ランナーレベルでしかなく、学生時代に陸上に打ち込むほどの実力はなかった。でも、「もしも……」の話であるが、その実力があってもこの筆者、黒木(本名は金山)さんみたいな精神力はなかったであろう。実力がなく市民ランナーで生きてきたから、今のボクがあるのだろう。
by hyocori-hyoutan | 2009-02-15 22:37 | 読書
「一瞬の風になれ」全三巻を読んだ。青春陸上物語だ。主人公は神谷新二であり、身長175cmで体重62kgのがっちり型、その親友は一ノ瀬連で身長は同じで体重52kgの痩せ型の二人を中心に物語は繰り広げられる。
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この小説を通して、「4継」とは、100m×4人のリレーと初めて知った。最大スピードでバトンパスすることの凄さを文章表現の中で感じ取れた。オーバーハンドとアンダーハンドパスの違い、アンダーハンドパスの繊細さが凄い。わたすのではなく腕振りの一環の中で、次走者の手の中にバトンが吸い込まれていくバトンパス……まさにテクニックと阿吽の呼吸が要求される。4人の選手のそれぞれの走力以外のバトンテクニックがレースを大きく支配する。その予想されない世界の中で勝敗を決する。勝って喜び、負けても誰の責任にもしない運命を背負った4人のドラマである。

もちろんそれだけではない。主人公「新二」は中学時代のサッカーで挫折し、その親友「連」は才能豊かなスプリンターで幼馴染……。そして高校も同じになり、一緒に陸上部に入った。でも、二人の実力差は大きいが、新二はコツコツとその差を縮めて。連も才能だけでなく新二をライバルと意識してやはりコツコツと努力をする。その結果が関東地区大会でライバル高に競り勝ち優勝をする。物語は次の高校総体までは触れずに「完」となる。

たかが陸上、たかが100mのスプリント種目……。そのレース描写が一巻より二巻、二巻より三巻というように繊細になり密度が濃くなる。踏み出しの一歩、中間走をいかにリラックスして走るか……MAXになった走りを100mのゴールラインまでどう引き延ばすか。奥が深い。

ボクは陸上部の部活経験なし。十代青春のスプリンターなんて夢にも思わなかった。でもその夢を40歳代、50歳代でも理解できる環境にいることが嬉しい。マラソンだけでなくスプリント種目(短距離)も面白い。

この小説は、フジテレビで2月25日から4夜連続でのテレビドラマ化されるらしい。ボクも是非観て見たい。皆さんも観てみてください。小説も貸し出ししますよ。
by hyocori-hyoutan | 2008-01-19 00:41 | 読書
荒川市民マラソンに出場したのは、今年の3月18日だった。あれから、もう3ヶ月以上も過ぎてしまった。寒く風の吹き荒れる一日だったが、もう遠い昔のことのように思われる。大会前日に受付に行き出展ブースを見学する。モデルチェンジになったシューズやウェアを物色して買いだめをする。するとランナーズのブースの中に夜久弘さんを見つけた。昔、ランナーズの本を隅から隅まで読んでいた時に、よく寄稿されていたスポーツライターだ。早速、近くによってお話をさせてもらい、積み上げられた夜久弘さんの執筆の本を一冊購入する。
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「福岡から来ました。夫婦でマラソンに参加します」
「そうですか。福岡にも時々行きますよ。最近はウルトラマラソンの仲間と天神近くの居酒屋”二升瓶”で痛飲しましたよ。」
「夜久さんのホームページも見させてもらっています。サロマには毎年参加されておられるのですね。」
「そうですよ。ホームページを見ているなら是非書き込みをしてくださいよ。」
「わかりました……ありがとうございます。」

表紙の裏にボクの名前とサイン、そして格言を書いてもらった。
”レースは努力の晴れ舞台” ……なかなかいい言葉だ。感心しながら本を受取り、お礼を言って立ち去ろうとした。すると、夜久さんから声を掛けられた。
「ゴメンなさい。本の代金をもらっていないかな……」
あわてて……
「すいません、払ってません。すいません」
といって急いで代金を払い、会釈してその場を立ち去った。
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そして家に戻り、その著書「ラブリーロード」を読み終えた。遅くなったが、その本の中から、印象に残った文章を下記の通り引用させていただいた。そしてその感想も少し書かせていただきボクの心の中の記憶にとどめておきたい。

ぼくが一日も休まずジョギングに出掛けていたのは、性格が変わったせいではなかった。意志薄弱な人間がある日突然、意志強固な人間に変るはずがなかった。ぼくは意志の弱さを自覚しているからこそ毎日走りに出掛けるのだ。意志の強靭なひとなら適当に休みを入れてもどうということはないだろう。けれでも自分のように意志の弱い人間は、一度休んでしまうとズルズルと休み始め、やがてなしくずしに走らなくなってしまうのは目にみえていた。休まないのではなく、休めなかったのだ。

全く同感、ランニングを休むと日々が過ぎ去るのが早いこと限りなし。あっという間に一週間、二週間が過ぎ去る。そして、あれだけ几帳面に築きあげたランニングライフが消えてなくなる。そして、また一からそのランニングライフを築き上げるのは、大きなエネルギーが必要になり面倒なものである。だから、ランニングは、夜久さんが言うように「意志が弱い」ことと、「面倒くさがりや」の性格が継続の力になっていると思う。

37年間を生きてきて、”一生懸命”ということばを何度口にしたかわからなかった。だが、一生懸命を実感したことはほとんどなかった。ぼくの”一生懸命”は方便と自己欺瞞のためのことばだった。「一生懸命やる」とは、とらえどころのないイメージのなかに逃避することだった。
そんなぼくが、走っているときは、紛れもなく一生懸命だった。ペースダウンをすれば苦しさから解放されるとわかっていても歯をくいしばって耐えている自分がいる、走れば、確実にそんな自分に会えるのが楽しかった。実人生では味わえない快感があったのだ。


当時、この本の原著を書いた夜久氏は37歳であった。ボクも37歳のころは、走ることが楽しくてたまらない年齢であった。ボクも一生懸命に走っていた、頑張っていた。その時の写真は輝いている。だから、マラソン大会の時の写真は苦しさに悶えていても美しい。写真館で撮った写真よりも、悶えている自分の写真が好きだ。ランナーはみんな同じと思う、だからマラソン大会に出張する写真屋さんは大もうけだ。そして、マラソンを人生にたとえる人は多い。「マラソンは人生みたいなもの……山あり谷あり、でも諦めなければ必ずゴールが来る」と言われる。ボクもそれは真実だと思う。しかし人生と同じじゃ面白くも何もない。人生を越える快感……それがマラソン、ランニングにはある。同感だ。生きるためと割り切れば人生は欲望と打算……。マラソンは趣味、生き甲斐と考えれば、純粋と共感だ。社会の中の役職も資産も関係なく、ランナー仲間はランナーという共通項だけで仲良く気持ちを共有できる。
by hyocori-hyoutan | 2007-06-26 23:58 | 読書
「国家の品格」という新潮新書を読んだ。著者は藤原正彦さんである。日本人の欧米崇拝に衝撃を与える書であり、日本人が世界で唯一持っている情緒感や武士道精神、そして精神的な高尚さを大切にしなければいけない……と述べている。

中学生の時の社会科の授業だったかな、アメリカの独立宣言の文章に触れたのは……。独立宣言では、「全ての人間は平等であり、神により生存、自由、そして幸福の追求など犯すべからず権利を与えられている。」と述べられているが、当時、奴隷制度を国策として取っているアメリカなのに、『何で人間は平等っていうの?』……と不思議に思っていた。

その疑問が、この本を読んで理解できた。この独立宣言は、イギリス国王に対する独立宣言と考えたらいいのだ。「国王と言うのは神から与えられたもの」という考えに対して「違うよ、国王だって人間だから、俺たちと同じなんだ」 という発想の平等であり、我々が今考える「人権」の考えなんか微塵もなかったのだ。奴隷は人間ではなかったのだ。

同じように自由の考えも、支配されていた国王に対する「自由」である。国王の上に存在する神によって自由が与えられているのだ!ということかな。

もともと、人間が離れ小島に一人で暮らしていたら、本当の「自由」であろうが、ひとつの国(ひとつの社会)に住んでいる限り、国(社会)から生存できる力をもらえる反面、自由も束縛されるのが当たり前である。自由、自由と叫ぶ人間ほど、他人の自由を侵害し迷惑をかけている面があると思う。日本では古来「自由」を「身勝手」と言っていたのだから……。

だから、”平等と自由”ということばは響きはいいが、その本質や時代背景を考えなければ、軽々しく使うことは出来ない。ある国の首相は、「自由だから、誰がいつ参拝に行こうか自由だよ!」と軽々しく言う。本当に自由なのは、誰にも影響を与えないという前提が必要である。特に、国の代表は国民を守ると同時に、自由を奪う立場の人間である。軽々しく、自分の行動を自由というなかれ!自由が欲しけりゃ、職を捨てて離れ小島で心の問題として、「自由だ!」と独り言を言っていればいい!

ちょっと過激になりましたが、本人がこのブログを読むわけではないので、いいでしょう!
お休み……。
by hyocori-hyoutan | 2006-07-25 23:29 | 読書

マラソン雑学は一流、記録は二流、そしてランニングフォームは自己流の三流、しかし、マラソンと人生を結びつける哲学は特級です。飲む時は年を忘れて、酒なら何でも来い!飲んだ分だけ走らゃいいと思っています。


by hyocori-hyoutan