カテゴリ:世相を斬る( 28 )

この国って 使えば他人行儀 批判だけかも

新聞等で日本のことを「この国」という表現が使われる。たとえば特集企画で「この国はどこに行こうとしているのか?」みたいな表題だと客観的、あるいは他人事みたいな内容になる傾向かな。

昔から「これ」「それ」「あれ」…の表現は中学校の国語で習った気がする。「これ」は自分の領域を指す言葉だから、この国=日本で正しい。でも「この国」と使うのは、日本人なのにちょっとよそよそしい。「この国」を「我が国」と言い換えれば、日本の中に自分自身が包含される言葉づかいになる。

そうだよね。「この国」と使えば常に批判的な内容につながるが、「我が国」と使えば建設的な内容になるみたい。だから評論家はこの国と使い、本当に日本をよくしたいのであれば、自分自身を日本に包含する「我が国」の言葉を多用する気がする。

我が国と使うことだけで、右翼と間違えられた歴史があったかもしれない。それは本当におかしいことだ。日本の将来を考えるときに「我が国」を主語で話せば、お互いに理解しあえると思う。日本のことを愛せるって当たり前のこと、それが最近やっと自分自身でも理解できてきた気がする。

この国って…てな感じでしゃべり始めると、責任感のない言葉続きそう、日本の将来はないって感じにつながりそうな表現ですね。

by hyocori-hyoutan | 2013-11-12 19:31 | 世相を斬る

おもてなし その語源に 歴史の重みあり 

今日ネットで時間つぶししていたら、東京オリンピック2020の記事の中で、今年の流行語大賞の有力候補である滝川クリステルの一言、「おもてなし」の語源について書いてあった。「表向きでなく本心で…」が「おもてなし」になったとのこと。これって深いですね。「表裏ではなく本心ですよ」…の後半をカットして「表じゃないですよ」が更に簡略化されて「おもてなし」となったらしい。

本心ですよ…を直接的に言うのでなく、表じゃないないですよ…と婉曲的に言うことが日本語の難しいところだな、奥行きのあるところかな。そしてもう一つ言えば、「おもてなし」が最初は本心を指していたが、いつの間にか、相手を心から接待することに転じてしまった。いや良い言葉ですね。

その中でも酒席で、上司のコップの酒の量に気配りをしながら、酌を継ぎ足すのも「おもてなし」の一コマって書いてあった。もちろん、度を越えた気配りは良くないが、これも必要なことと思う。いつも呑み助のボクからみても、空いたコップを継さしてくれなのは周りの人はさみしいものだ。

この文化は江戸時代の軒先が重なるような長屋で暮らしていた、庶民の生活習慣、互いに本気の付き合いをせざるを得ない環境で生まれたものであるとも書いてあった。我々の生活パターンは自分で築いたもの、あるいは親から引き継いだものと考えがちであるが、実はその源は江戸時代、あるいはその前の時代からのものを引き継いであることに歴史の重みを感じる。

「歴史の重み」は、現在も引き継いでいる良き悪しきを含めた生き様であって、今は確定していない生き様、考え方で「歴史の重み」を軽く変えてはいけないということかな。

by hyocori-hyoutan | 2013-10-06 20:15 | 世相を斬る

国のプライド 言えば他国の プライドと衝突し

隣の国の偉い人が、「D島(日本名T島)を守るのは、国の自尊心を守ること」といったらしい。自尊心とはプライドであり、人間として生きていく上での精神的支柱になるものだろう。でもプライドを国土領有の場合に持ち出すのには違和感を感じる。領土問題は事実関係に基づき冷静に協議、判断すべきこと。それを国民のプライドの次元で話すのは、話し合いに応じることはないとのことであろう。

共産党の支配するC国との紛争でも、同様に泥沼かもしれない。そう考えると、領土問題は冷静に解決するのではなく力関係(経済、軍事力など)が重要であり、それを支えるナショナリズムも必要になるということだろう。上記2国が国のプライドをかけて反日行動を拡大している以上、それに対抗するのは話し合いではなく、日本国民も持っている「プライド」でしか対抗できないと思う。

嘘も100回言えば真実になる。間違いがあっても屁理屈で押し通す。国内と国外のダブルスタンダードを平気に使う。自国の歴史観を他国に押し付ける。力の強いものには従うが弱いものは徹底的にやっつける。

そんな気持ちでなければ外交上の有利な展開はできないもの。これが世界基準であろう。和の精神で話し合おう。阿吽の呼吸…なんて甘い、甘い。そのことは美徳だと思うが心の中に仕舞いこんで、世界基準の対応が外交上必要な場合もあるだろう。

by hyocori-hyoutan | 2013-09-27 08:21 | 世相を斬る

歴史認識 世につれ所につれ 変わるものかも

歴史認識が問題になっている。まず「歴史」と「歴史認識」をきちんと整理しなければいけない。日本人にとっては学校の教科書に書いてあることが、事実と背景(考え方)の歴史としている。だから、日本人の考える歴史=(狭義の事実としての)歴史+(考え方の)歴史認識であろう。

しかし、隣国では、事実としての歴史を軽んじられ、(考え方の)歴史認識が突出している。だから事実には目をつぶって、「歴史認識」のみ先行をしている。そんな状況なのに、一昔前に歴史認識を普遍化するための教科書問題協議なんて妥結することなんかない。案の定そうなったが…。特に現代の人間にとって都合の良いことだけを歴史認識として強調することは、日本人には承認できない。

しいて言えば、国内ではいいが、国外にまでその認識を強制してほしくない。その唯一のよりどころが大平洋戦争による勝者が全て正しく、敗者が全て悪いという歴史観から来ている。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉とおりである。でもこれが今の世の中に通用しないことは明らかである。これを認めれば、もう一回戦争をして、勝者にならないとひっくり返しはできない。

そうならないために、国連ができて、戦争での勝者が正しく、敗者が悪いのではなく理に基づいてた解決方法を模索している。なかなか、そうはならないのも現実であるが。「人類に対する罪」「平和に対する罪」で裁こうとしているが、なかなか各国の利害もあって、その罪の普遍化作業も難しい。

それに勝ち負けに関係なく罪があるなら、非戦闘員の中心地に原爆を2回を落とした罪は勝者だから許されるのか、最近そのことを強く思う。隣国も原爆被害者の補償を原爆を落とした国に請求してみたらいい。むかしから「繰り返しません。原爆の悲劇を…」を犠牲者に宣言をしても、その原爆を落とした当事者に言えないのが、敗者の限界か。まだその最高指導者は未だに謝罪もしていない。

by hyocori-hyoutan | 2013-08-25 23:49 | 世相を斬る

正論ってしらける でも雑誌正論は 面白い

最近はネット検索でニュースを見る機会が格段に増えている。ネット検索だから断片的な知識しか手に入れることができないが、「チリも積もれば山となる」の諺の通り、雑学には強くなった。一つの言葉がキーワードになってネット検索を続けているうちに、1時間、2時間が過ぎていく。その中でも、最近は日本の外交のことに関心、興味が増えた。ネトウヨではないが、中韓の政治指導者の発言に憤り、国内の新聞(朝日、毎日の社説など)、テレビのニュース番組の報道にも頭に血が上る。そんな心境の中で、最近読み始めたのが産経新聞社のオピニオン月刊誌「正論」である。日常上の会話で正論を言えば、堅物として煙たがられ場がしらけるが、この雑誌「正論」は面白い。
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ともかく、今まで「こうなければいけない、こうあるべきだ」と自己規制していた問題から解放された感じだ。日本の国の自虐的歴史観からの脱却、日本文化の長き伝統の素晴らしさを痛感し始めた。また、外交とは駆け引きであり、相手の挑発に乗ることはないが、きちんと挑発に対しても毅然とした態度はとるべきと思う。

経済なんてどうしようもない、だれが首相になっても50歩100歩の出来事かもしれない。でも日本という国をどんな国にしたいのかは、トップに立つ人間は示す義務がある。その方向性に国民が共感をもてば、日本という国は安定をする。言葉は足らないが、これも自分の勉強不足。ぼちぼち勉強をして行こう。

それにしても、日本のニュース番組は酷い。特にテレビ朝日「報道ステーション」、TBS「サンデーモーニング」のコメンテーター、論説委員の体制批判、中韓寄りの発言は許しがたい。でもこの番組はニュース番組として高視聴率なのも解せない。もう一つ言えば、日本はダメ、指導者もダメと言い続ける、元プロレスアナウンサー、元ラジオアナのMM氏の罪も大きい。「体制批判すれば庶民は喜ぶ」と考るのは古いのでは…。

by hyocori-hyoutan | 2013-08-10 00:01 | 世相を斬る

体罰と暴力 同じ次元で 考えるからおかしい

仕事柄、スポーツにおける体罰と暴力の問題は気にしている。テレビや新聞で毎日のように取り上げられているし、できるだけ自分も目を通している。その中で一週間前くらいの毎日新聞に書かれていたコラムが印象に残っている。

高校部活での体罰は許されるのか?どこまで許されるのか…という議論があるが、体罰は字のごとく「罰」である。罰を与えることは、その前提として「間違ったことを行った」「人の道に反した」「反社会的なことをした」などが前提だ。スポーツ部活で負けることが、技術が未熟なことが、あるいは集中力が切れていたことが悪いことなのか…。そんな風に考えると体罰を与えることは意味をなさない。単なる指導者のフラストレーションを発散するための暴力に過ぎないのではと思う。本人の指導者としての資質のなさの表れであろう。

スポーツだから仕方ない…で片付けたらいけない。茶道、生花の例でも分かるように下手だから体罰を与えることはない。親子でも子供が理解できないといって体罰を加えることもおかしい。今、問題になっている事例は体罰でなく暴力であると考えたらわかりやすい。もうひとつ、暴力といっても「体に触れる暴力」、「言葉で浴びせる暴力」「無視することによる暴力」「あるいは金銭を奪う暴力」もあると思う。だから暴力そのものが反社会的、人権を無視するものであろう。

では「体罰」は存在できるのだろうか。体罰という言葉が生きていれば、その限度、許容範囲は人それぞれに認識も違うのでどこまでも拡大する傾向がある。だから、この世から体罰という言葉をなくせばいい。案外、日本語だけであって、他の言語に体罰はないかもしれない。(それもないかも…)

逆に暴力という言葉の範囲内で、「小さい子に危険なこと察知するために体で覚えこませる」ためなどにごくごく限定的に認めるのも一方策かもしれない。暴力が反社会的、反人権的なことを十分に理解した上での話であるが…。

話は飛ぶが、罰としてグランド10周などを与える指導者もいるが、ランニング愛好家とすれば、罰の手段として、ランニングを活用するなんてもっての他である。せっかくの楽しいランニングなのにランニング嫌いを誘発するだけだから…。

by hyocori-hyoutan | 2013-02-14 00:40 | 世相を斬る

歌は世につれ 世は歌につれ 月は流れる

テレビを見ようと番組表を表示させたが、面白い番組もない。日頃はあまり見ない「テレビ東京」と昭和の歌謡曲の番組を見始める。これが面白かった。最近の歌にはついていけない。AKB48や嵐の歌を聴いても心に留まるものはない。しかし昭和の歌は違う。歌詞が違う。歌を聴きながら目をつぶれば情景が目に浮かぶ。昔は親が見ていた「懐かしのメロディ」なんて面白くもなかった。それが面白く楽しく感じるのは年をとった性でしょうかね。
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坂本九…1985年の日航機御巣鷹山墜落事故でなくなった。「上を向いて歩こう」は名曲中の名曲だ。涙がこぼれないように上を向いて歩こう…なんて誰でもわかる。行動で心の中までが読める。ボクも中学生の頃に九電記念体育館であった「坂本九ショー」を見に行ったことがある。レッツキス踊ろうよ、レッツキス歌おうよ♪ジェンカのリズムがはやった頃だ。
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そしてクレージキャッツも出てきた。日曜日の夕方6時半からあったザ・ピーナツと一緒に出演していた「シャボン玉ホリディ」は毎週楽しみに見ていた。計算された間やアドリブは、音楽センスに裏づけされたものだ。クレージ、そしてドリフターズに脈々と笑いの伝統は行き続けていた。
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そして、はしだのりひこも忘れられない。時々スナックで歌ったこともある「あの巣晴らしい愛をもう一度」…歌詞が素晴らしい、メロディが素晴らしい。♪……命かけてと誓った日から素敵な思い出残してきたのに♪…その元のグループ、フォーククルセダーズがもっとすごかった。イムジン河~水清く、おらは死んじまっただ~時代を先取りする音楽性はすごかった、ある意味では日本のビートルズみたいであった。
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フランク永井といえば、「有楽町で会いましょう」この歌が有楽町に新しく出来たデパートの宣伝歌であったというのは最近になって初めて知った。今も東京によく行くし、東京が大好きだが有楽町の近くを通るたびにフランク永井を思い出してしまう。
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松尾和子の大人の魅力もすごかった。こども心にも胸にしみるものがあった。「あなたを待てば雨が降る 濡れて来ぬかと 気にかかる. ああ ビルのほとりの ティー・ルーム ...」いやいや大人魅力でした。

昭和は遠くなりにけり…いつか歌謡曲が再びよみがえる。そんな気もするが、昔から「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉もあるとおり、世の中、社会と密着している。世の中が逆戻りできない以上、昭和の歌は昭和でしか出来ない。これが現実だな。

by hyocori-hyoutan | 2011-01-14 22:26 | 世相を斬る

涼しさも変 変だらけの国政 所詮わが身の保身

5月は過ぎてクールビズの季節の6月になる。しかしクールビズも素直に喜ばれないほど、涼しい朝が続いている。本来なら涼しいのはランニングには好都合であるが、やはり季節外の涼しさとなれば話は別である。夏の装いの短パン半そでシャツのパジャマで寝ても、朝方は涼しくて掛け布団をかぶり丸くなって寝ている。例年だと扇風機が恋しくなる季節であるが、今年は厚めの掛け布団がほしくなる。変な季節だ。

変といえば、内閣支持率も70%超えから20%を切る数字に急降下である。言動も変、結果も変、落とし所も変である。聴衆に訴える演説の「……ではないでしょうか」「……しようじゃありませんか」は、切れ味が悪い。
「沖縄の海を守ろう、アメリカにいいなりでなく、対等ではないでしょうか」で生まれた辺野古基地問題…。
「子どもは日本の宝、その子どもを大切にしようじゃありませんか」で生まれた"子ども手当"…。
しかし聴衆に訴えただけで、冷静に言質を追えば、本人が断定して強く自己主張をしていた訳ではなかった。だから、いつでも変節できるのであろう。聴衆を巻き込む演説は所詮、扇動するだけのことであった。

「ボクは皆さんに訴えて皆さんが支持してくれたから、その方向で頑張った。でも、頑張った結果、予想に反してハードルが高かったから、ハードルを下げて着地したんだよ」と言いたいみたいだ。周りも変だ。風向きが悪くなると誰も親分の危機を救おうとする熱血漢もいなくなる。支持基盤が違っており、民主と自民のスタンスは違うと思っていたが、一人ひとりの議員の生活を支える議員バッジを守ろうとする姿勢は同じみたいだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-05-31 23:58 | 世相を斬る

連続休日 企画はいいが シンプルに

休日法の改正が新聞紙上を賑やかしている。内需拡大を見込んだ戦略的な考え方だ。

でも休日の原点に帰ればおかしな議論である。休日は歴史や伝統に支えられた、全国民で祝うハレの日であり、ボクの子どもの頃は各家には国旗が掲げられていた。成人の日、春分の日、憲法記念日、五月節句の子どもの日…、勤労感謝の日…。それなりの歴史があり国民に受け入れられてきた。みんなで祝うことが第一義的な目的だった。休日は日曜日に重なると、それで休みはおじゃんになってしまい、月曜日が振り替え休みっていう事もなかった時代だった。子ども心ではとてもつまらないと思ったこともあった。それだけハレの日を大切にしていたものだ。

それが、4/29の「昭和天皇誕生日」が「みどりの日」になり、更に「昭和の日」になっている。その波及で、5/4が「国民の休日」から「みどりの日」になってしまった。「体育に日」に関しては、東京オリンピック開会式を記念した「晴れ」の特日だったが、ハッピーマンディー法によって第2月曜日にしたおかげで、なぜか雨が多い日になってしまった。何となく、適当に祝日を変えてきてしまう時代になってきた。

歴史と伝統を大切にしようじゃないか。祝日のたびに「憲法を考える」「勤労を考える」「スポーツに親しみ体を健康にする」…いろんなことを休日のたびに考えること、祝うことが大切じゃないのかな…。

今回のゴールデンウィークを春と秋に持ってくるのなら、既存の祝日を廃止にして、「国民の余暇活動の日」として設定して、どんどん金を使いなさい…といったほうがわかりやすい。もうひとつは、休暇を積極的にとるような法体制を整備していくことも必要だ。今朝のテレビでコメンテーターも言っていた。「休みの取り方までお上が口を出して決めなきゃいけないのか…」政治主導といっても、政治のかかわりすぎじゃないか。もっとほかにやるべきことがあるのでは。

仕事がない、ないといっている時代だ。仕事は減らさず多くの人が働けるように社会のシステムを変えるべきであり、たんに連続休日にすればいいという議論は単純かもしれない。ただこの話は単純なことではなく、地域ごとに休日を変える必要もあり複雑な問題だ。デメリット、メリットを検討すればするほど。この施策は複雑になっていくことは明らかである。お上が物事を変えようとするときは、事務方の頭脳集団が複雑な体系を作り出すことは歴史が証明している。

昔、昔の大学入試でも、総定員は変わらないのに、共通一次、前期試験、後期試験等の複雑な試験体系にしてしまった。その結果は予備校が繁栄しただけであった。"Simple is Best!"の理念で、この問題にあたってもらいたい。そんなボクの会社員生活も残すところ3年になってしまった。年から年中、休みになってしまえば、ボクにとってはどうでもいい問題か…。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-07 21:04 | 世相を斬る

あっと驚く 比較広告 読むも恥ずかしい

ブログを更新しようと思い、エキサイトの投稿画面にログインだ。すると広告バーナーが出てきた。自民党の広告だ。中味をみてビックリした。アメリカで有名な比較広告(ペプシとコカコーラーみたいな……)よりもっと過激な広告が出てきた。民主党の政策の総批判である。自分の党の政策をアピールするのではなく、他党の批判のオンパレードだ。読むのも恥ずかしい気がするほどだ。こんな批判をすれば自民党に票が集まると思うこと自体、国民を選挙を馬鹿にしているみたいな感じがした。選挙前だし、あまり過激なことは言わずに今日はこれまで!
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追加:こんな広告が許されるのに、選挙が告示されたら、立候補者のブログ更新が禁止されているなんて、インターネットの時代なのに可笑しいことだ。たしか戸別訪問も禁止だったかな。公職選挙法そのものが選挙民の資質を低く見ている感じがする。

by hyocori-hyoutan | 2009-08-11 23:59 | 世相を斬る