ひょっこりひょうたんの日誌

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カテゴリ:マラソン名言( 40 )

意志があれば足も軽い

ランニングを日々続けていくには、強い意志が必要だ。その意志を補強するのは、ランニング日誌だ。このブログ、ホームページも開設して3年4ヶ月になるが、特にWEB練習日誌は絶えることなく今日まで続いている。頭の中だけでは考えもまとまらず、安易な方向に流されがちであるが、ランニングの日々を書き留めることによって、自分で自分を激励することができる。

日々のランニングを書き留めるという小さな努力が、ランニングを生涯の友にするという大きな財産を生み出していく。ボクのランニング日記は30歳頃から始まり40歳過ぎで中断したが、中断はランニングから遠ざかる道を選んだ。そして、再び走り始めた生活を支えているのも、やはりランニング日記だ。
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(写真は20年前のランナーズ付録のランニングDIARYから)
日々の記録を残していると、ランニングを続けるという強い意志が生まれてくる。そして、日誌を書くことで、目先の小さな目標から、5年度、10年後の大きな目標を持てる。目標を持って走れば、自ずと足は軽くなる。もちろん年とともにタイムは落ちても足は軽くなるはずだ。

そして、記録を残し過去を残すことは、近未来に必ず訪れる老齢化に伴う精神的な落ち込みからも救ってくれる気もする。記録さえ残していれば、若かりし頃の全てを失うことはないのだから。逆に日記等の記録がなければ、頑張った証しが無いようなもの……虚脱感に支配されるかもしれない。
by hyocori-hyoutan | 2008-05-21 23:55 | マラソン名言
マラソンは喜びである。(アーサー・リディアード)

3ヶ月ぶりの「マラソン名言」である。あと少しで40本目になる。多分50本は掲載されているから、ラスト10本頑張ろう!

ボクが「ランナーズ」を愛読書にしてむさぼり読んでいた頃に、「リディアード式トレーニング」がよく掲載されていた。ヒルトレーニングや高地トレーニング有効性を理論の中枢にしていたと思う。平坦な道よりアップダウンの多い坂道トレーニングが、走りに効果的な筋肉を鍛えフォーム改造になる。高地トレーニングが最大酸素摂取量を増やして有酸素運動の能力を高め、持続的なピッチを維持できるというものだったかな……。

要するに速く走るには、"ストライド×ピッチ"を鍛えなければいけないということ。この理論は競技者でも市民ランナーでも通用することである。

話を戻そう。「マラソンは喜びである」はシンプルだけど奥が深い。背景には、ランニングは苦痛、マラソンなんて地獄だ……という意識の反語だから印象的だ。でも、この言葉は20年以上前の言葉であり、東京マラソンで市民権を得たマラソンにとっては、今はこの言葉に共感を持つ人も多いであろう。「喜び」は苦しい過程があるから「喜び」になる。まぐれが支配するスポーツには「喜び」はないだろう。

更に、じゃあ、「100kmマラソン」は何と言ったらいいのだろう?

ボクは「100kmマラソンは大人の道楽だよ」と表現してもいいと思う。体力が衰えてくる中高年になったら、10kmでもハーフでもマラソンでも、一年前の記録を更新することは、だんだんと厳しくなる。体力、筋力がベースになっているから仕方がない。でも、100kmになると、体力や筋力以上に、気力、精神力が重要になってくる。そこに中高年を虜にする魅力が潜んでいる。努力すれば報われる……この言葉には若い人より年配の人の方が反応が早い。
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道楽だから採算は考えないし、費用対効果も関係ない。他人との比較も不要だ。あるのは心の充足感だけだ。この世界を知れたのは喜びである。特に40歳を境に引退したボクを引きづりだしたボクのオクさんには、感謝しなければならないね。
by hyocori-hyoutan | 2008-04-24 23:37 | マラソン名言
私は歩きはじめた時からもうすでに走るのが好きだったようだ。  (セバスチャン・コー)

セバスチャン・コーと言えば、イギリスの1980年代の有名な中距離選手。たしか西側諸国がボイコットした1980モスクワ大会と次のロサンゼルス大会の1500m金メダリストである。そして、最近では2012ロンドンオリンピックの招致委員長みたいな重要な役職を担っていたと思う。もう50歳ではないかな。現役の時から人気が高くスポーツマンシップに溢れていたと思う。

その優れた才能の持ち主だからこそ、「歩き始めた時からもう走るのが好きだった」言える。ボクも生まれた時からではないが、小さい時からから走るのを見るのは大好きだった。一番古い思い出は、やはり九州一周駅伝大会、天神から4kmほど離れた馬出に住んでいたから、九州一周駅伝の最終区のコースが家のすぐ近くだった。狭い道路の両側に一杯人が出て応援をしていた。正月の箱根駅伝でスポットで流される昔の沿道の応援風景と同じ情景が繰り広げられていた。

もう一つは、東京オリンピックの2ヵ月後に開催された朝日国際マラソン……。東京オリンピックでは期待されながらも沈んだ当時の第一人者の寺沢徹選手と、小柄ながらも闘志の塊であった東京急行の中尾隆行選手の死闘を国道3号線の箱崎浜で観たことを思い出す。その差は20メートルであったが、ゴールでは1分差になっていたことを思い出す。ボクの小学6年生の時の話である。

そして、肝心な走ることの目覚めは遅く、当時盛んであった校内駅伝大会でも選手として選ばれたことなし。大学時代の応援団でもビリ……。そんな遅咲きだから、今もしつこく走ることを追い求めている。マラソン解説も大好き。好きな解説者は、昔のNHK常連の理詰めの故高橋進氏、状況分析が上手で断定的な解説の多い宗茂氏である。自分の自慢話が多い瀬古さんの解説はイマイチかな。

まあ、「生まれた時から好き」には戻れないが、「死ぬまで走ることは好き」のままにはなりそうだ。
by hyocori-hyoutan | 2008-01-21 22:23 | マラソン名言
きちんとしたコースと正確な時計と要を得た給水と主催者のあたたかい心配りさえあれば、それはもうそれだけで立派なレースなのだから。  (村上春樹)

村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」の本を昨日読み終わった。売れっ子小説家であって、走り続けることを小説を書き続けるみたいにずっと続けている……。その感性は、とても身近に感じることが出来た。小説は自分の頭の中で組み立てて行く作業も多いであろう。走ることも、目標の大会を決めた時から組み立てていく。共通項があるみたいだ。

その文体は、状況描写力がすごい。ただ美しいと思うだけでなく、何故美しいのか……風の色、季節の風、自然の中に溶け込んでいく自分を的確に描いていく。複雑な己の感情を淡々とした無機的な描写をすることで、イメージが膨らんでいく。文章表現とは、こういうことを示すものかと再認識させられた。

そして、自分は小説家としての才能はないという。だから常に神経を研ぎ澄まし新しい刺激を求めていかなない。だから、走ることは小説を書く体力を確保するとともに、自分を新しい刺激の世界においておくには必要だという。ボクも小説家ではないが、何となく分かる気がする。

毎年、冬場のフルマラソンと夏場のトライアスロンに参加することで、生活のリズムを取っているのは、ランナー的な考えである。巻頭のマラソン名言も、シンプルで分かりやすい。最低限のマラソンを走る環境さえ整えてくれたらそれでいい。その中でどう感じ、どう演じるかは参加した自分自身の問題なのだから……。
by hyocori-hyoutan | 2007-11-26 21:40 | マラソン名言
走ることは缶詰社会からの脱却である。人工から自然への回帰である。人間連帯の復帰である。  (豊島宗七)

今では「缶詰社会」なんて言葉は使わない。、閉塞感のある社会、流れ作業の中でしか身動きが出来ない職場環境みたいなものを指す言葉であろう。気になったのでグーグル検索してみると、「缶詰」と「社会」が別々でしか使用されていない。つまり「缶詰社会」という言葉は、現在では使用ゼロである。そんな言葉の意味が分かる自分がおかしい。年齢を重ねた証拠かな。

閑話休題(ところで)、走る世界と閉塞感のある世界を対立的に使っている。これも理解できる。走っていると全てから解放される気持ちになる。仕事からも……、嫌なことからも……全て解放され自分中心の世界に入れる。閉塞感のある社会では自分が自分でなく歯車の一部になることであろう。自分が自分であること、自分の存在を再確認することが走ることかもしれない。そして、自分の存在を確認できてこそ、人間同士の連帯が生まれる……。

もしもボクが走っていなかったら、自分自身をどのように評価しているだろうか。

走ることは五体満足であれば誰にでも出来る。そして一生懸命に走ることは人間の本能である。その結果として、有森裕子じゃないが、走った結果はどうであれ「頑張った自分を誉めてやりたい」気持ちになることは比較的簡単だ。(本当は高石ともや氏が言った言葉らしいが……)

自分を誉めてやることは、自分を認めることであり心地よい気持ちになる。そうなると、その心地よさが他の人に声を掛けたくなり、その心地よさを伝えたくなる。人間連帯の始まりだ。反対に走ること以外では、今の世の中では他人との競争が多いから永遠に負け続ければ、自分を誉めることはできない。自分を誉めなければ人間連帯は生まれない。

そう考えると、人間というのは自分自身と戦うことは自然であり、他の人と比較したり戦うことは人工的、現代社会の歪と考えられる。だから、走ることを競ったらいけない。自分自身の世界に入らなければいけない。

でも、毎日のランニングをオクさんと競い、日々の日常生活の話をして自分自身の世界に入っていないボクは、ランニングの失格者?……そんな事はない。ランニングは一人で考える喜び、みんなで感じる喜びを与えてくれるものだから……。
by hyocori-hyoutan | 2007-11-25 22:17 | マラソン名言
マラソンは私にさまざまな体験をさせてくれるし、意外な出会いをもたらしてくれる魔法の杖のようなものだ。
                                (原彦次)

本格的に走り初めたのは28歳の頃であった。それまでは、職場の駅伝大会前に1ヶ月ほど走る程度だった。しかし28歳の時、職場の異動があり走る環境に恵まれた。そこから自分の走る世界が始まった。もう25年以上走り続けている。健康づくり、肥満防止で始めたランニングであったが、今もその基本的な考え方は変っていない。健康でありたい、肥満は避けたい…なんて世代を超えた願望であろう。

その普遍的な願望を実現できるのがランニングだ。自分自身の願望を実現するとともに、それを通して、さまざまな体験をさせてくれる。走っている間の襲ってくる「ランニングハイ」の恍惚感や、実年齢に囚われない自己記録の更新へのチャレンジ精神なんかはマラソンによって得られる体験である。

また、人との出会いでもすごい効果がある。いろんな人、それぞれの場で人と出会い、その時の自分の置かれた立場で付き合う。そして離れていく。でも、一度偶然の出来事で出合ったランナー仲間は、なかなか離れていかない。走力が違っても、年齢が違っても、離れがたい。そんなのが走る仲間である。そんな仲間は世間一般でいうと意外な付き合い方かもしれない。

魔法はこの世には存在しないのに、ランニングをしていたら、魔法に近いものを手に入れることが出来る。魔女じゃなくても魔男になれる近道はランニングかもしれない。奥が深いが誰にでも出来るランニング、凡人にでもできるランニング……本当に走れて良かった。
by hyocori-hyoutan | 2007-09-07 23:14 | マラソン名言
”走れる”、そのことが喜びなのです。
                                (山田敬蔵)

山田敬蔵さんは、もうすぐ80歳になられます。生涯走行距離は35万kmを達成され、地球8周と3/4周回になるそうです。20歳から走り始めたとしても60年間になり、年間に直すと6000km、月に直すと500kmになります。このような距離は、若い頃なら10年くらいなら出来るかもしれませんが、60年間なんて、とても出来るものではありません。その間、フルマラソンは317回の公認レースを全て完走されています。もちろんボストンマラソン優勝などの素晴らしい記録、栄誉もあります。(2007年8月号ランナーズ:下条編集長編集後記から引用)

そのような前人未踏の記録を達成された方が、20年前に発したのが上記の言葉です。理屈抜きの走る喜び、日常生活の中に走ることがある、だから損得なしに走ることが喜びになります。

ボクも、30年間走り続けています。走らない自分は想像できません。自己表現の一つにしか過ぎないランニングですが、自己表現の全てがランニングになっているかもしれません。また、全ての事象を、ランニングの世界に置き換えて考える癖ができています。だから、生きている事が喜びならば、走れることも喜びになります。ただ、それだけのことです。
by hyocori-hyoutan | 2007-07-10 23:13 | マラソン名言
ランナーには周囲に落ち着きがなく、いがみあった状態のときでも、自他ともに楽しい雰囲気を創り出す力がある。    (ロジャー・バニスター)

別にそんな能力はあるとは思わないが、「落ち着きがなくいがみあった状態」の時でも、その雰囲気に飲み込まれずにマイペースで行動する能力は長けているかもしれない。ランニングはチームスポーツじゃなく個人で調整をして大会当日を迎えなければならない。特にボクの場合は、大会当日に仲間と一緒に行動するのは嫌いだ。レースシャツを着るタイミング、トイレに行くタイミング、サロメチールを塗るタイミング……、全てスタート時間から逆算して行動をしている。だから、集団行動は煩わしい。

上記の格言は、「落ち着きがなくいがみあった状態」の時でも、その状況を悪化させることがなく、無視するから元に戻る手助けをしている、と言った方がいいかも。結果として、元の楽しい雰囲気に戻るかもしれない。
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先日走った阿蘇100キロでも、レース前の時間帯は落ち着きがなくてもいいのだが、何故か楽しい雰囲気になっている、本当に不思議だ。みんな朝の2時ころから起きて準備をしているのだが、眠たそうな人はいないし、悲壮感もない。よく言われている事だが、100キロレースのスタート地点に立つことが大きな目標であり、そのスタート1時間前は、そのスタートに立てる充実感で満たされているのかもしれない。

巻頭の格言から少し外れてしまったが、ランナーたるもの目標を持たなければならない。その目標があってこそ、自分自身が楽しく、周りも楽しくさせるということであろう。
(無理にまとめました……)
by hyocori-hyoutan | 2007-06-10 23:10 | マラソン名言
とにかく、走ることで、安らかな生活が送れるのです。  (石川利寛)

先日の「キューネット笑顔で歩こう走ろう」に参加して、ゲストの高橋尚子選手(Qちゃん)と一緒に走れる素晴らしい機会に巡り合えた。その時に、Qちゃんは、ボクの後方10mくらいを、他の一般市民ランナーと伴走をしていた。ただ、走るだけでなく楽しそうに会話をしながらニコニコペース(それでも㌔5分は切っていた!)であった。
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(ボクの後の集団の真ん中がQちゃんです)そして、走りながらでも、Qちゃんの話し声は聞こえた……

Qちゃん:走ることが楽しんですよ。だから、引退とかで自分が走らなくなることなんて考えられませんよ。

Qちゃんは、シドニーオリンピックの時に、シモン選手とデッドヒートを繰り広げていた時も、「とても気持ちが良かったから、シモン選手と2人でずっと走る続けていたい気持ちになっていました」と言うコメントも発していた。小出監督じゃないが、Qちゃんは走ることが心底から好きなんでしょうね。

このことは、巻頭の名言「走ることで安らかな生活が送れる」につながることだと思う。走ることが自己表現のひとつであり、走ることに満足しているから平穏な心の状態が作れる。すると、全ての事象を前向きに考えられる。切り口の「走ること」が「負の連鎖」ではない「善の連鎖」を生み続けることになる。

ボクの場合も、自分の現状に対して不満がある時に、走ることで気を紛らそうとしたこともあった。これは、消極的な動機と言えるが、結果は「走ること」を通して、自分自身の考え方が変り、周りが同じでも自分自身が変れば、多くの困難と思えた事象が解決していった。心が安らいだ状態になったのだ。

ランニングが全ての魔法とまでは、言わないが、すぐれた秘薬であることは間違いない。その秘薬を飲んだばかりに、50歳を超えているのに100kmに挑戦するという馬鹿げたことにチャレンジしている。秘薬が効きすぎたお陰で、安らかな生活どころか怒涛の日々を送っている。

これもまた人生ですね。
by hyocori-hyoutan | 2007-05-02 23:03 | マラソン名言
ランナーのゴールは健康でない。最大限の結果を生むのに必要なフィットネスこそが目標だ。
(ジョージ・シーハン)

まず「ジョージ・シーハン」という名前は、ボクの記憶にあるが、名前だけでどんな人かは記憶していない。だから、googleで検索で調べてみると、ジョージ・シーハンは医学博士で、フィットネスムーブメントの推進役として尊敬を集め,『ランニング人間学』『ランニング実践学』などの著書がある人だ。存命なら89歳である。多分、今も愛読している月刊誌「ランナーズ」で知っていた名前であり記憶の片隅に残っていた名前である。

その人の名言が、「ランナーのゴールは健康でない」である。「ランナーのゴールはタイムでない」と言っていたら納得であるが、「ゴールが健康でない」と言われたら戸惑ってしまう。

ここで、「健康」という言葉について語らねばいけない。この名言は、1987年以前の名言であり、当時の時代背景で言葉の意味を考えなければいけない。多分、私見に過ぎないが、「健康」は「病気」の反対語に過ぎなく、病気ではなく健やかに暮らしているという意味程度であったのだろう。だから、標記の名言は、「ランナーは健やかに暮らしているだけではいけない」と言う意味かな。

後段の「最大限の結果を生むのに必要なフィットネスこそが目標だ。」で言っている。「フィットネス」は「目的を持った健康づくり」あるいは「より豊かな生活を楽しむための基礎体力の養成」と言っていいのかな。つまり、「健康」は健やかな状態であり、「フィットネス」は健康づくりのための努力を継続している進行形かな。

この違いが考えながら今晩も走った。単なる健康を獲得するだけでなく、心も体もより充実した生活を送るためにフィットネスが必要のなってきたのだろう。今は、走ることを通して人生の生き甲斐を感じることが必要になったのだろう。
by hyocori-hyoutan | 2007-03-03 00:03 | マラソン名言

マラソン雑学は一流、記録は二流、そしてランニングフォームは自己流の三流、しかし、マラソンと人生を結びつける哲学は特級です。飲む時は年を忘れて、酒なら何でも来い!飲んだ分だけ走らゃいいと思っています。


by hyocori-hyoutan