<   2010年 03月 ( 27 )   > この月の画像一覧

昼夜走って 30km達成 これで満足!

仕事も休んでで30kmも走った。桜ランしてもいいのに、何となく室内のルネランを選択してしまった。11時から13時までの2時間をひたすら走って20kmだ。最初から20kmを走るつもりだから無理せず最高速度11km/hで自重した。これだけ走れば満足だ。

更に、平日の休みのノルマである2回目のルネ通いもした。すると、トレーナーから尋ねられた。
「あれ、昼間来られていましたよね?」
「来ていたよ。今日2回目。休みは2回来て頑張らなきゃ…」
「そうですか。頑張ってください。」

次に馴染みの会員さんとも出くわした。
「あれ、昼間からずっといたんですか?」
「いやいや、違うよ。昼間に20km走って、夜は10km走っているところだよ。」
「そうですか。昼間からずっと走っておられたのかと思いました。」

言った本人も昼来て、夜来ているのであろう。ともかく30kmも走ったのは久しぶり、これで今夜も気持ちよく眠ることが出来る。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-30 22:39 | 日々ランの雑感

車ピカピカで 戻ってくる 日々慎重に…と自戒する

下駄シリーズは一休み。仕事も一休みした。年度末に仕事に出ても雑用が多いから、懸案事項がなければ休みにしよう!…ということでお休みだ。実は、一週間前にガードレールにぶつけた車も新品になって戻ってくるし用事は一杯ある。だから休みだ。

車をぶつけたといったがその前から小さな不運が続いていた。自転車のパンク、車の破損、小ちゃい物だが歩く途中の落し物…不幸は続くもの。でも車の修理が終わればすべて元通りになる。今からは、幸運が舞い込んでくれることを期待するしかない。幸い今日、小さな知らせが届いた。たいしたことではないが、日々平穏で暮らせればいい知らせであった。

更に、来週には東京から娘が出産のために里帰りをする。しばらくの間、我が家で暮らす人間も3人から4人に増える。更に、その後には5人になる…。楽しみなものだ。でも、その後にまた去って行けば寂しいかもしれない。

そうそう、車は立派になって戻って来た。完璧に綺麗になって戻ってきた。少々保険代は高かったが、車両保険に入っていてよかった。一円の出費もなく、しかもレンタカーも無料だったから。せっかく帰って来た車だし、娘とオクさんの前で、「車は新しくなって戻ってきたから、ぶつけないように注意して運転しなさい。2回目は免責10万円の負担があるからね。」と言ったら、「最初にぶつけた人が言うのは可笑しいよ。私たちは安全運転しているよ。」と言われた。言われてみればまさにその通りだ。明日からは注意深く慎重に、腰を落ち着けて暮らそう…と自戒した。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-30 22:08 | 生活の知恵と愚痴

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(14)

長い大学一年の前期日程も終わり夏休みになった。当時は7月10日から夏休みに入り、前期試験は夏休み明けの9月中旬からみたいな気がする。つまり、試験もないままの夏休みであり気軽なものだった。まったく自由の夏休みであったので、少しのバイトと社交ダンス教室に通ったのが思い出される。

当時、大学ではダンパ(dance party)が盛んに開催されていた。体育会(体育系サークルの集合体)や部活が主催で開催されていた。会場は学館ホールなどであったかな。パーティ券は300円(ドリンク付)程度であった。ボクは社交ダンスは踊れなかった。そのため、踊れない女性は「壁の華」といっていたが、踊れない男性は「壁の…」、何て言っていたか忘れてしまった。ボクはその「壁の染み」みたいなものであった。せっかくのダンスパーティーに行くなら踊れた方がいいと思ったものだ。

そのため、帰省中の夏休みにダンススクールに10回ほど通った。たしか呉服町から博多駅方面に南下した奥の堂付近の教室であった。当時でも30分の受講料で1500円くらいはしたと思う。そこで、ジルバ、マンボ、ルンバ、ブルース等の基礎を学んだ。でも、マスターしたからといって、すぐにダンパに行ってかっこよく踊って、彼女が出来るなんて……そんなに甘いものじゃなかった。まあ、長い目でみれば、社交ダンスをマスターしたことは、後々大いに役に立った。人生なにが役に立つか、わからないもの。これは今だからいえることだ。

大学に行っても教養部の授業は面白くないし、キツイ応援団の練習も嫌と思っていたので、ちょうど夏休みがいい息抜きになっていた。高校時代には出来なかった家業の手伝いも進んですることも出来た。これは、あとあと考えてもいい親孝行になったと思う。問題は息抜きをしすぎて、9月上旬にある応援団の夏合宿も大学に帰らず参加しなかった。相変わらず我がことながら精神が弱いものだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-30 15:03 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(13)

そして夏休みに入った。でも実家には戻れない。九州地区インカレが開催されている。その応援に行かなければならない。その年の会場は大分県だった。主管大学は大分大学だった。大学から子飼橋電停までは歩いて、子飼橋から路面電車で熊本駅へ。そして豊肥線に乗って大分に移動する。一回生は太鼓や校旗、団旗を持っての移動である。暑い7月上旬の気候であるが、詰入りの学生服を着ての移動が堪える。

大分に着いても移動は続く。準硬式野球の応援、軟式テニスの壮行会等で飛び回る。宿に戻って学生服を脱いで干すと、なんと学生服に塩が噴出していた。洗うわけにもいかない。水洗いOKの学生服なんてその当時はない。翌日もその塩吹き学生服で応援だ。多分、経費の関係で2泊3日程度の九州地区インカレの応援だった。

大学に戻ると打ち上げだ。場所はどこだったか忘れたが、買出し等も一回生の役割だ。熊大の北門を出たところの「よしだスーパー」があった。今は、コンビニ「セブンイレブン」になっている。その店でよく買出しをした。間違った買出しの思い出とすれば、魚の缶詰で格安だったので買っていったら「さばの水煮」だったこともある。

先輩から「お前たち、水煮の缶詰食えないぞ!」と言われたことも懐かしい思い出だ。何かイベントが終わることの打ち上げは必ずあった。それも、知命堂や下宿屋が多く、繁華街の下通りや上通りに繰り出すことは、それほど多くなかった気がする。もっぱら黒髪界隈での飲み会…それはそれで楽しかったものだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-28 21:44 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(12)

6月に入ると幹部交代があった。四回生は引退して三回生に幹部が引き継がれる。ボクが入学した時の四回生(幹部)は五代目だったから、六代目にバトンタッチされた。一回生にとって四回生はまさに雲上人であり会話する時も緊張をしたものだ。その代から三回生にバトンタッチされるのは、寂しいというより身近な人が幹部になるのだから、ちょっとうれしかった気がする。

幹部交代の場所は、熊大の北東隅にあった「知命堂」が恒例の場所であった。今はホテルみたいに綺麗になっているが、当時の知命堂は古びた木造の集会所だった。コンパ専用の和室とトイレくらいしかなかった。飲んだ勢いで廊下の板を叩き割ったこともある。ただ学生部に申し込めば、場所代は無料だった気がするし、料理も持込自由だった。その後も知命堂はよく利用した。応援団の追い出しコンパでも恒例の場所だった。

応援団の幹部の名称は、団長、副団長、リーダー長、統制長、総務長……があった。この人選が絶妙であった。前幹部が次年度の役職を決める。同学年の互選じゃない。1年上の先輩が決める役職だ。「団長」はとりあえず全体をまとめる包容力があるもの。「副団長」は小言や嫌味を言えるもの。「リーダー長」は日頃の練習を引っ張っていく体力と己に厳しいもの。「統制長」は優しく弱者にも労わりのあるもの。「総務長」はスケジュール管理に長けてユーモアセンスのあるもの。そんなふうに役職毎のイメージがあった。

そして、団長から次年度の幹部が紹介される。「団長、……」「副団長、……」と紹介される。呼ばれた新幹部は、旧役職のものから大きな杯でナミナミと酒が注がれる。多分2,3合の酒であった。それを一気に飲み干す。今の時代では危ない、危ない。

それで1,2,3回生だけの新しい応援団がスタートした。優しそうな三回生であったが、立場が幹部になると違ってくる。立場が人を作っていく。試練はすぐに来た。7月上旬の合宿であった。早朝から立田山山頂までの片道2kmほどの朝トレであったが、ボクにとっては過酷な練習だった。2列縦隊での集団から遅れてしまい、ボクについて伴走してくれる幹部、2人だけで走っていた。まだがんばれるが心の余裕がなくなり気持ちが切れた。

「もう止めた、応援団を止めます。」といって歩き始めた。
驚いた幹部は…「まだ、まだがんばれるぞ!」というだけである。

学年を超えたお互いの頑張りで応援団が成り立っている以上、切れた相手にかける言葉はない。自分自身の心の弱さが出てきた場面だ。自分ではもっと頑張れると思っていても、頑張れない…言い訳をするには開き直るしかない。開き直って本当の弱さを隠す必要がある。そんな自分が嫌だったが、嫌な自分を弁護する自分もいた。

先輩たちは決して責めない。弱い相手を責めることはしない。それが応援団の良さであった。弱さを責めるならば、その弁護に自分は突き進めなければいけない。でも、弱さを責めずに優しく受け入れてくれると、自分自身が弱い自分を責める必要が出てくる。先輩はこのことを大事にせずに、ボクはまた応援団に入ることを続けた。また、同期生の頑張っている者も、「俺も頑張っているから一緒に頑張ろう!」の声も力強かった。そして、やっと夏休みに入ってきた。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-28 21:19 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(11)

応援団には、ボクの一回生のときは14の演武があった。拍手ものが4で、歌を歌いながら演武が10であった。拍手ものは、リーダーの動きや呼吸に合わせて拍手を重ねていく。楽なようでキツイものだ。間が重要視される。ひとつの拍手が終わって10秒以上の間、静止の場があることもある。見ている人間にとっては、次の動作を忘れいると心配に思えるくらいの間である。それも、四股立ちのままの場合が多かった。筋肉が痙攣を起こし脚は震えてくるし、横に広げたままの手にも震えがくる。そして、本番なら一回で済むので楽だが、練習では何回も繰り返される。まさに気持ちが切れることを、いかに伸ばさせるかが勝負だった。

歌詞付演武の方は、歌詞を覚えることが大変だった。歌謡曲の一曲の歌詞も覚えていないのに、10曲の歌詞を覚えることは大変だった。くたびれた夜に覚えることはできないので、退屈な授業中に演武の歌詞集を持ち込んでいた一回生もいった。ボクは授業中に覚えることさえ嫌だったから、あまり歌詞覚えの予習をした記憶もない。それでも何とか夏休み前には覚えることが出来た。

演武の時の整列は2列になる。真ん中は一番背の低いもの。扇のように両端が背の高い人間が並ぶ。ボクは真ん中よりの左手だった。必ず横を見てまっすぐに並んでいるかどうか確認だ。一回生は2列目だから楽だった。一列目は二回生だから、ワンテンポ遅れても真似をしていけばOKだった。ただし、二回生が間違うとこっちも間違ってしまうことも時々あった。まあ、それは愛嬌であった。

声の出し方は腹筋を使った発声法だから、ともかく大きな声を出すこと。音程は二の次だ。できるだけ音程を守るようにするが、必要以上に大きな声を出していたら音程が狂うことは当たり前になる。それでも、何とか歌として伝えること出来ていた。余談だが、演武は世につれて変化するものだった。ボクらの10年も後輩になると、歌のスピードも遅くなっているし、音程の狂いもひどくなっていた。応援団の演武は楽譜のない伝統文化だ。先輩から後輩への伝承、伝承でつながっていく。時が経てば経つだけ、強調すべきことはより強調されていく。大きな声は強調され、音程の狂いは無視されていく。

悲しいことだけど、時代とともに生きている演武だからそれも仕方ないのかな…と思う。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-28 11:15 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(10)

ゴールデンウィークが過ぎると、大学のキャンパスも活気づいてくる。確か、五大学対抗総合体育大会が開催されるのは5月中旬くらいだった。熊大、熊商大、熊工大、東海大、熊本女子大だったかな。(間違っているかもしれない)その応援のために、応援団も恒例に合宿に入った。合宿所は子飼商店街の入口付近の「浄照寺」だった。お寺の本堂に泊り込むのだ。格安で提供してくれていたのだろう。

合宿の準備は、まず布団の準備からである。ボクが引っ越した時のように、学生部に入ってリヤカーの予約をする。当時は大学の学生部は、アルバイトの斡旋、生活の相談等を行ってくれる学生にとって身近な存在だった。そして、リヤカーの貸し出しも重要な仕事だった。1,2回生は、借りて来たリヤカーを引いて、先輩たち下宿先を巡る。布団を運ぶのだ。合宿といっても"マイ布団"持参であった。

朝錬は授業開始前の7時だったかな。武夫原で発声練習をする。
「フレー、フレー。クーマーダーイ!」
「フレー、フレー。クーマーダーイ!」
そして、応援歌の練習もする。腹から声を出せ!と先輩からしつこく注意を受ける。腹筋を意識するように拳骨でお腹をたたかれる。痛いけど我慢、我慢である。更に、体を痛めつけるのが好きな応援団だ。リーダーが腕立て伏せをするよう命令をする。今度は「腕立て」のまま応援歌の練習だ。
リーダー「必勝の歌!一番、ソーレー、イィー!」

血をすすり涙して、勝ち得し御旗濁世の最中、燦たる光♪
見よや紅の旗頭、熊大健児の意気の精♪
立てば治めん御旗の下に、群雄乱れ剣折るるとも♪
如何で渡すべき此の旗を、決死の力を尽くすまで♪

腕がキツクなり、楽するためにお尻を上げる。一番早くお尻を上げるのはいつもボクだった。するとリーダーが飛んできてお尻を下げるように指導を受ける。次にやっと、腕立て伏せから解放されたと思うと、「お手手振り振り」だ。これもキツイ。横や上に腕を動かすより、更にきついのは静止だ。まさに今でいう「バツゲーム」みたいなもの。じっと腕をまっすぐ上に、両耳に腕をつけた状態で、これまた応援歌を歌い続ける。それにしても、武夫原で早朝から大声を出しても、まったく苦情は来なかった。いい時代だった。

早朝練習が終わると、学生会館で全員で朝食だ。「いただきま~す!」大きな声で食事の挨拶をする。食堂中にこだまする。でも迷惑なんて気にもしない。おおらかな時代だ。これで早朝練習から解放される。さあ、授業に行かないといけない。ところが朝から練習すれば、くたびれる。授業に行かずに下宿に直行である。布団は合宿所のお寺にあるが、布団はなくても下宿で一眠りだ。これをしないと、夕方の練習に耐えられない。こんな生活って予想しなかったことだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-26 05:22 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(9)

大学に入って1ヶ月経った頃に、一人暮らしを心配したのか、両親そろって熊本に様子を見に来た。軽自動車(三菱ミニカ)に乗ってやってきた。家で一緒に暮らしている時と、一人暮らしをしている時では、親への接し方が違う。やっと1ヶ月間だけの一人暮らしをしたに過ぎなかったが、親のありがたさを味わうには十分であった。

せっかくだから…温泉に行こうということで、親子3人で熊本近郊の山鹿温泉に行った。一緒に暮らしているときは、恥ずかしくて出来なかった親孝行もその時にできた。父と一緒に風呂に入り、「背中流そうか」と声を掛け、父がうなづくと父の背中を石鹸で洗い流した。その時が初めての経験であり、結果として、最初で最後の背中流しになってしまった。同居ではわからなかった父親の寂しそうな背中だった。そして、温泉に一泊した翌日は山鹿温泉のバスセンターで、両親は福岡へ帰り、自分は熊本行きのバスに一人寂しく乗って熊本の下宿に戻った。一人暮らしをしているのだなあ……と実感した一コマであった。

当時はもちろん携帯電話みたいな便利なものはない。福岡-熊本間のたった100kmに過ぎないのに、電話をかけるのも大変、電話を受けるのも大変だった。電話は下宿屋にかかってくる。呼ばれたら「すみません、ありがとうございます」といって恐縮して肩身の狭い思いで、下宿屋の居間の電話口に出る。電話をかけるには、わざわざ、市外通話が出来る公衆電話まで自転車で出かけ、10円玉を一杯用意して架けなければいけなかった。そんな具合だから、電話をかけるときは「金なし金送れ!」的な会話しかなかった。

でも、山鹿温泉から戻った夜は自転車を飛ばして、公衆電話口まで出かけ親に電話をしたことを覚えている。「無事に帰ったよ!」「そうかよかった。こっちも戻ってきたよ。」短い会話だった。当時は高速道路もない時代だった。山鹿-福岡間でも国道3号線の山越えルートなら3時間はかかっていたと思う。携帯電話があっていつでも連絡できる状態ならば、どんなに遠くても安心するものだが、近くても連絡つかない状態は不安で仕方がないものである。だから、昔は今以上にお互いに心配をしていたものだ。逆に電話連絡なんて、いい知らせより悪い知らせの方が多かったような気がする。

「便りがないのはいい知らせ、元気でがんばっているということ」そんな時代だった。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-26 04:42 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(8)

ちょっと、当時の生活費のことを思い出してみる。親元からの仕送りが2万5千円だった。下宿代(2食付)が1万1700円だから、残りは1万3300円…。これで生活をしていた。まあ、大学の食堂の定食が90円、トンカツ定食が120円、ビン牛乳が18円の時代だったから生活が出来た。晩酌なんかしてないし酒代もいらなかった。特に1年生は先輩が奢ってくれるので、酒代もあまりかからなかったかな。質素な生活そのものだ。

不思議なのは、瓶ビール(当時は大瓶663cc?が中心)の値段は覚えていない。つまりビールを買ってきて下宿で飲むようなことは稀だった。ただ、金のない田舎の貧乏学生ばかりだから、下宿屋や学生アパートでの宴会もよくした。飲んだ酒は、サントリーの「RED」、ニッカの「HI-NIKKA」であり、コーラー割が全盛、他にはジンとライムを買ってきてのジンライムなんかだった。焼酎はあまり飲まず、日本酒の方が多かった。日本酒も一級酒、二級酒に分かれており、いつも買うのは、美少年(二級酒)であり、一升瓶で800円くらいだったかな。あまりはっきりは覚えていない。

また学生にとって夜食は必需品だった。食堂にラーメンを食べにいくなんて贅沢、下宿でインスタントラーメンを作るのが日常的であった。日清のカップヌードルも出始めで70円くらいだった。インスタントラーメン(25円~30円?)と比べても、これも贅沢品だった。

銭湯代は35円だった。洗面桶に石鹸とタオルを入れて通っていた。ちょうど、かぐや姫の「神田川」の歌が世に出たのは、ボクが大学3年生のころだった。彼女と一緒に銭湯に行って、♪♪洗い髪が芯まで冷えて小さな石鹸カタカタなったなんて♪♪なんて夢みたい生活だなあ…と思ったこともあった。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-24 07:18 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(7)

応援団のことばかりでなく、勉強のことも書かないといけない。当時の制度としては、法文学部に合格しても専門学科に進むのは2年時からであり、1年時は教養部に属しており高校の延長線上の授業であった。この教養部の授業は面白くなかった。哲学なんかは、先生が自分の書いた論文を100分間ひたすら読み上げていく。それを学生がひたすらノートに書き写していく。何とも退屈、苦痛な授業であった。そのほか、……概論、……原理みたいな授業ばかりだった。

まず、先生と学生のコミュニケーションがなかった。大学の先生は、自分の知識や専門分野の切り売りで授業を進め目が輝いていなかった。学生にとっても高校の延長みたいな授業内容で新鮮味もなく、ただ専門分野に行くための通過儀式みたいな感じだった。教養部とはいいいながら、大人になって役に立つ教養や、専門分野へいく基礎知識的なものはなかった。どうみても、大学を目指して一生懸命勉強した高校の科目の方が、自分の今の生活には役立っている。高校のカルキュラムの成熟度と比べると、大学教養部の制度としての統一性のなさは顕著であった。詳しいことはしらないが、その後の大学制度を改革しなければいけない下地は十分にあったと思う。

そんな授業であったが、一日100分の授業を4コマ、4コマ×5日=20コマ、土曜日2コマの計22コマ枠のうち、18コマくらいは教養部で受けていたかな。とりあえず単位を取得しなければ、次の専門学科に進めないの今も同じである。基本は自分で受講する科目を選んで週間プログラムを作っていく。朝一番に起きるのがつらいなら出来るだけ一限目の授業はとらない…ということも出来た。ただ、共通なのは語学だった。第2外国語をドイツ語、ロシア語、フランス語から選択しなければいけなかった。ボクはフランス語を選択したので、1年5組に組み込まれた。何故か1年次だけはクラスというものがあった。

英語もろくに出来ないのに、フランス語なんか出来ない。当時フランス映画も全盛期であった。ボクもフランス映画は好きだったから、映画の最後に"FIN"と出るのはフランス映画だった。今も知っているのは、ジュテームや、コマンタレブー、メルシーボークー、ケセラセラくらいなものだ。今の時代と変わらないのは、女子学生の優秀さだ。男子学生と比べたら、まじめにフランス語に取り組んでいたのは、圧倒的に女子学生だった。ボクは、男子学生のなかでは、比較的真面目(?)な方だったが、それでも試験は一夜漬け、あるいは二、三夜漬け程度だったかな。

そんな訳で、入学して一ヶ月もすれば大学授業なんてどうでもよく、単位さえ取得すればいいや…みたいな考えになっていく。だから、ますます心のより所はなくなる。キツイ練習のある応援団、嫌で嫌でたまらない応援団が、生活の中心になっていくのはおかしなものだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-03-24 06:32 | わが半生記