アキレス腱 痛みも慢性化 でも治さなきゃ(3)

治療から戻ってきて、4日が経過した。その間、トレッドミルや外ランを少々実践して、アキレスの快方の具合をチェックしている。幸いなことに、悪化せず快方の状況を維持している。今日もルネサンスでトレッドミル上で走っていたら、それを見ていたオクさんからのコメントをいただいた。

「フォームが大きくなっているよ。今までよりもストライドも大きいし見栄えがするよ」
「そうか、やっぱしそうか。自分でも一歩一歩が大きく感じている。走り始めて1kmまではゆっくりジョッグだったのが、脚が快調だからすぐにペースを上げれる感じになっている」

今までは、車から降りてすぐに歩くのは苦痛であったが、今はすぐ降りて通常の歩きができる。当たり前のことが当たり前にできる喜びを感じている。本当は週一回ペースで通院したいが、東京じゃ毎週行くこともできないのが残念だ。そのうち、東京のレースに出る目的で、その前後の土曜日、月曜日に通院すれば一石二鳥になるかな。また東京遠征の楽しみが出来た。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-29 22:04 | 健康化大作戦

アキレス腱 痛みも慢性化 でも治さなきゃ(2)

某駅から歩いて1分の細長い雑居ビルの中にその診療所があった。エレベーターを使って階上に上がる。診療所のドアを開けると午前10時からの診療開始直後にもかかわらず、もう5,6人の患者が長いベンチ椅子に座っていった。ボクは最後尾に並んで座る。座ると目の前は擦りガラスのパーテーションがあり、その中が診察室みたいだ。診察室と待合室は厚めの足元まで垂れ下がった暖簾がかかっていて診察室の中は見えない。もちろん、声は筒抜けである。雑居ビルの一室を借りているが、その広さは30平米ほどの狭さだ。

「初めて来ました!」と中の診察室に向けて声を出す。張り紙「新患の方は診察中でも声を賭けてください」という注意書きに沿って行動をする。すると、中からバインダーに綴じたメモ紙とボールペンを渡された。「はい、初診の人は住所と名前、そして病状を書いてね!」という言葉を添えて…。

待つこと10分程度でボクの順番が来た。緊張感が高まる。先ほど書いたバインダーを先生に渡す。
「どこが悪いの?そうかカカト、アキレス腱の痛みか。エッーもう10年も放置していたの。」といいながら、ボクは指示されたとおりに細い診察台の上に仰向けに横たわる。

先生はボクの足を触り、カカトの痛い箇所を探し始めボクに確認を求める。
「ここだな。アキレス腱とカカトを繋ぐ部分だな。もうアキレス腱の患部は盛り上がっているし石灰化、棘(骨化)しているね。直るかな。もっと早く来ればよかったのに、10年も放置していたら分からないが、ともかくやってみましょう」と早口でしゃべり通しの先生だ。
「西洋医学は外科的手法には効果があるが、骨や神経的な痛みに効果を発揮いたしませんよ。」ボクはただうなづくだけで次に指示を待つ。

その次の指示は、診察台の横にあった治療台だ、まあ、胃がん検診でバリウムを飲んだ後に横たわる前後の傾斜するベットみたいなものだ。横たわると数分の間、先生はボクの背中やカカトを軽く叩いて擦り続ける。電気治療や針を刺すといったこと無し。ただ、叩いて触るのみである。そんな治療を終えて、前後に傾くベットから診察台に移動する。

「どうですか?足は軽くなりましたか?」ボクは疑心暗鬼でちょっと立ってみる。アキレスのツッパリ感覚がない。軽くなった感じがした。
「楽になりました。ありがとうございます。」
「じゃ、一週間後にまた来てね。初めて治療だったから、そのあと吐き気や気分が悪くなることもありますが、用心しておいてね。運動や入浴はまったく問題ないからな。はい、じゃ初診だから○○○○円ね。はい、じゃ次の方…。」
「ありがとうございました。」と言って診療室を出る。出ると待っている患者はやはり5,6人もいった。

効果を確かめるため、エレベーターを使わずに階段を使って一階まで駆け下りていく。これが不思議だ、いつも違和感のある階段下りが違和感もなく軽快だ。不思議だったから、駅のホームへの上り下りも足早に走ってみる。これも軽快だ。今までも痛みを10とすれば、3まで回復した感じがした。まさに、「ゴットハンド(神の手)」で出会った感じだ。軽快な足取りは、今まで、10年以上の痛みをを忘れさせるものだった。本当に不思議なものだ。理屈では解決しない「神の手」に出会った。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-26 22:11 | 健康化大作戦

アキレス腱 痛みも慢性化 でも治さなきゃ(1)

5泊6日の旅から戻ってきた。別に海外に行ってきた訳ではない。空路と陸路で東京、大阪、京都に行ってきた。まずは、東京である。羽田空港に着いて京浜急行で都心へ向かう…。目的地の駅に着いて、早速、宿泊ホテルにチェックインだ。朝一番の飛行機だからチェックインも朝10時だった。もちろん荷物だけホテルに預けて行動開始である。今回の主たる目的である足の治療を行う病院に向かう。

ブログでいつも書いているように、ボクのアキレス腱の痛みはもう15年前からだ。本当に痛みを堪えて走っていた。あまりの痛さに城南区神松寺の佐田整形外科に10年前に通院したら「アキレス腱周囲炎」と言われた。アキレス腱とは、ふくらはぎの筋肉と踵骨を繋ぐ腱のことである。走り過ぎると走るのに必要なふくらはぎ(ひらめ筋等)と踵を繋ぐアキレス腱にストレスがたまる。だからアキレス腱の下部の炎症を起こし腫れてくる。腫れがひどくなると石灰化してきて盛り上がったままの状態になる。その状態がボクの状態だ。走り始めは痛みが強く走り続けると緩和される。だから最初の走りだけ我慢すれば走れる。その繰り返しであった。良くなったり悪くなったりであった。

だから、足のことを書くといつも矛盾していた。同じフォームで走っていて今日は抜群でも次の日は駄目みたいなことになる。フォームではなく、病状「アキレス腱周囲炎」の調子によって変わるのだから当たり前のことでる。その整形外科ではなかなか直らない治療に、別の道を見つけようとするために名医を求めて東京まで出向いた。

その病院とは…今日はここまで。長旅の疲れもありお休み!

by hyocori-hyoutan | 2010-04-25 22:43 | 健康化大作戦

しばし休憩…

ちょっと飛行機に乗って遠くに行ってきます。
明日からしばらくです。
帰宅のブログ報告は、4/26(月)になるかな。
報告はボチボチします。
ではまた…。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-19 23:21 | 生活の知恵と愚痴

暑さが恋しい しばし室内で トレッド走

4月もどうにか月間300kmペースを維持している。ボクにとって300kmは生命線になってきた。200kmだと体重オーバーで調子下降。350km過ぎると疲労でアキレスが痛み出す。今が丁度いいペースかもしれない。ただフォームが無性に気になるのは、アキレスの痛みのせいだろう。どうすればアキレスの痛みを緩和するかいつも模索している。模索のためにはフォームを変えて研究をしている。研究をしてもアキレスの調子が掴めないから、今日のフォームが明日のフォームにならない。

これを繰り返しているうちに年をとってきた。アキレス痛プラス高齢化がますますフォームを小さいなものしていく。一時期、外ラン、通勤ランに賭けていたが、最近は室内ランの逆戻りだ。春なのに寒い気候が外ランを嫌にしているみたい。もう少し暖かくなって汗が噴出せば、外ランも楽しいもの。さて、来週は、一足はやいゴールデンウィークになる予定だ。アキレスの調子が元に戻るために真面目に治療をしてこよう。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-18 22:47 | 日々ランの雑感

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(20)

遠歩が終わると演武会に向けての練習が始まった。通常の練習は午後5時から7時くらいであったが、演武会前の練習は2部制になった。通常の夜7時までの練習は同じだが、その後は武夫原の一角にある体育館に移動する。その2階にある小体育室で演武練習をする。何故か上靴は誰も履いていない。裸足で冷たいフロアーの上で演武練習をする。何度も同じ練習が繰り返される。

歌ものよりも拍手ものがキツイ。じっと四股立ちのままだ。脚が痙攣をするみたいまで頑張る。声も張り上げる。リーダーの動作に集中だ。一時も目を離さない。本当に真剣勝負である。一回生は前列に二回生がいるから少し楽だが、二回生も必死である。

小体育室の外では、旗手が1時間以上も旗を持ったままである。集中力を高め持久力を高める。鼓手もも必死である。汗を拭う暇もなくじっとリーダーを見つめたままだ。それほど集中力を高めても何でこんなキツイ練習をするのか疑問にもつ瞬間もあった。全員がスポーツ刈を義務付けられた。でもボクはそんなことに逆らってスポーツ刈を拒否した。幹部が説得をしたがボクは従わなかった。反発することで弱い自分を正当化するみたいであった。

そして演武会当日を迎えた。場所は熊本市民会館大ホールだ。期日は昭和46年(1971年)12月10日だった。緞帳の後ろに一回生、二回生の16人が二列に整列している。OBになっている初代団長もはるばる挨拶のために駆けつけてくれた。「この後ろには厳しい練習の耐えてきた若者がいる。心意気を感じてほしい…」そのような挨拶があった。後ろで一心不乱に立っていたボクは感激を覚えた。ともかく頑張るのだ。
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緞帳が上がっていく。演武会が始まる…。「易水流れ寒うして…」最初の演武が始まる。会場を見渡せば、体育会サークルのみんなが応援に駆けつけてくれていた。ほぼ満員だ。厳しい練習に耐えて練習をしてきたのだから、何度も同じ演武を練習してきたから間違うわけにはいかない。気合が入っていた。でも何回も練習した体には、本番の一回限りはあっけないものだった。あっという間の一部、二部であった。精一杯の力を出し切った。
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そのあとは、即、打ち上げ会だった。太鼓や校旗などを部室に運んで打ち上げだった。新入生歓迎コンパと同じように飲み干した。違うのは分からずに飲んだか、達成感、感激に満ちて飲んだかの違いであった。当時としては、一年前の受験勉強に明け暮れていた時とは違う、見返りを期待しない充実感、達成感に満ちて喜びの酔いであった。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-18 22:18 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(19)

そして、10月31日を迎えた。午後8時すぎの熊大学生会館前は異様な賑わいを見せていた。貸切バスが何台も待機している。これから阿蘇山上駐車場まで移動する。バス10台ならば500人程度の参加であったか…。(ともかく38年前のできごとだから薄ら覚えであることも仕方なし)

約一時間後には、もう阿蘇山上駐車場だ。バスから降りると寒い!しばしバスの中で待機する。どこからか仕入れたおにぎりを食べてレースに備える。11月初旬の阿蘇の夜は寒い。しかしこれから56kmあまり走るウェアは、いつもの練習着だ。上下ジャージだけであり、なぜかアンダーウェアは伝統的に着用しないから上着ジャージ一枚で保温性は低い。そして、履いた靴は、アシックスターサー(もちろん、その頃のマラソン専用シューズなんて貴重品で持ってない!)ではなく、2000円程度の穴の開いた運動シューズであった。

個人よりはサークル単位の参加が多かった。だからスタート前は各サークルで円陣を組んで歓声をあげて士気を高める。深夜の阿蘇山上は場違いな盛り上がりだ。そして深夜零時にスタートした。阿蘇山上から草千里へ、草千里から坊中へ、一本道を駆け下りる。テンションは最高潮に盛り上がる。

そして、先輩から冷やかされる。
「◎◎、えらい元気だな。無理するなよ、先が長いぞ!」
「はい、わかりました!」

何がわかったのかわからない。相変わらずテンションは高く、軽やかな足で坂道を駆け降りていく。深夜の阿蘇の賑わいは阿蘇草千里までであった。たかが400,500人のランナーだし、その中には当初から完歩を目指す人もいるから、スタートして2km,3kmではバラバラになっていく。真っ暗な暗闇、月の光だけの阿蘇登山道路をひた走る。とても気持ちが澄み切ってくる。いつまでも走りたい気持ちになってくる。走ることに集中してくる。集中しているわりには、心の中ではいろんなことが走馬灯のように駆け巡る。

実は、この阿蘇遠歩レースの少し前には実家から電話がかかっていた。父の体調が悪く家業を辞めたとのこと。そして入院したとのこと。実はボクの中学3年の時にも胃の手術を受けていた。癌であった。いつ再発するかわからない状態であった。その知らせを下宿で受けたが、とりあえず学業優先で熊本に留まったいた。遠歩に出て走りながらも、ちょっと不安を感じていた。でも、その不安も実家ではなく熊本の地にいたこと。そして大学生活を楽しんでいたことで吹っ飛んでしまう。「この遠歩レースが終わったら実家に戻ろう。」それだけを感じながら走っていた。

坊中、阿蘇駅付近の国道57号線に出てくる。もう急な下り坂は終わった。これからは緩やかな下り坂だ。自分の脚で一歩一歩、熊大赤門を目指さないといけない。案の定、闇雲での飛ばしすぎが体に堪えてくる。時々歩きも入ってくる。阿蘇の57号線は暗い。たまに通る車のライトはまぶしい。目を下にやって黙々と一人で走り続ける。

父が入院し、家業もたたんだということは、親からの仕送りは続くのだろうか。まあ仕送りが続くにしても甘えていていいのだろうか。せっかく大学に行かせてもらっているのに、勉強もせず部活ばかりしていていいのだろうか。その部活もいやいやながらも続いているだけだ。情けない自分だな…。思い巡らすことは一杯である。

暗闇から声がかかる。
「◎◎!、追いついたぞ! 元気か先に行くぞ!」
同学年の応援団仲間である。
「ああ、いいよ。ぼちぼちいくから…。先に行ってくれ。」
これで、応援団仲間の中では最後尾になってしまった。

脚の疲労にあわせて、股ずれが始まった。これは堪らない。練習で擦り切れたジャージの股を補修したのがいけなかった。ごわごわになった股の部分のジャージが皮膚とケンカする。ガニマタになって歩く。何度もジャージをたくし上げたり、ジャージを下ろしたりして接触部分の緩和に努める。

暗がりの中から明るい照明がだんだんと大きくなる。大津バイパスと大津商店街に分かれる三叉路を明るく照らす照明灯だ。休憩所があった。飴をいただき座り込む。単独の参加ならば棄権も考えたが「応援団」での参加だから棄権なんてあり得ない。ぼつぼつと歩く。商店街の自動販売機でジュースを飲み干す。5分に一人くらい抜かれる。抜く人間は皆無になる。大津街道の長いこと限りなし。

やっと大津街道を通り抜け、JR竜田口駅までたどり着く。もう朝9時になっていった。深夜零時スタートだから9時間かかって54km地点通過だ。もう病人のような歩きだ。そしてゴールは、何と11時であった。ラスト2kmを2時間かかった。つまり時速1kmだった。本当に疲れた。赤門からゴールの武夫原入り口までの遠いこと限りなし。そしてゴール後は学生会館前に置いていたマイチャリで下宿に帰る。そして、下宿での睡眠時間は昼の12時から翌日の昼12時まで…食事もすることなく延々と24時間も起きずに眠る続けた。でも遠歩は大好きだった。2回生の時は怪我で出場できなかったが、3回生、4回生の時も連続して出場して、多分7時間くらいではゴールして一回生の時の汚名は返上した。更に大学を卒業した4年後には友人と一緒に現役応援団を通して出場させてもらい、6時間くらいでゴールしたことも思い出す。
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写真は大学2回生の時の第9回大会の時のゴール写真だ。応援団は伝統的に強く、この時も団体(3人の総合成績)1,4位を獲得、個人でも10位以内に4人を送り込む好成績だった。賞状と副賞の酒が時代を反映している。この時は、ゴールした後に「対商大定期戦」の応援のために一睡もせずに応援に行った。一回生から二回生に一年も経てば、人間は強くなるものだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-17 22:26 | わが半生記

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(18)

秋が深まる。秋の夜長は楽しい思い出もあった。応援団活動で忘れられないのは、「阿蘇耐久遠歩大会」だ。これは11月1日の午前零時に阿蘇の山上駐車場をスタートして、ひたすら阿蘇山を駆け下り、坊中、赤水、立野経由で熊大赤門を目指す耐久レースだ。約56kmの距離になる。

応援団の仲間は、もともと運動特技を持っているメンバーは少ない。野球やサッカーの特技があれば、当然のごとく、そのクラブに入る訳だ。ボクもその例外ではなく得意なスポーツがないから応援団に入部したという面もある。だからこの遠歩大会は、ひたすら走って順位を競うのだから我慢比べの面もある、我慢強さでは他のクラブを圧倒する力のある応援団とっては得意種目だ。そこで10月は遠歩に向けて長距離ランニング練習が始まった。

「さあ、今日は武蔵塚までのランニングだ!」その言葉で今日の練習は決まった。熊大赤門から阿蘇に向かって国道57号線を走る。「エイサ!ホイサ!」の掛け声が永遠と続く。武蔵塚までは片道5.5kmだ。往復11kmのランニングコースだ。今じゃ大した距離じゃないのに、当時の19歳のボクにとっては永遠に長い距離だった。「エイサ!ホイサ!」の掛け声はだんだんと遠のいていく。ボクは幹部の3回生と二人だけのランニングになる。エイサ!ホイサ!の掛け声も小さくなる。時々は歩きも取り入れる。

やっと着いた武蔵塚では発声練習だ。発声練習でさえ気合が入らない。後半の5.5kmのランニングを考えただけで気が重くなる。

「クマダイー ファイト!」「オッス!」
「クマダイー ファイト!」「オッス!」

「クマダイー ファイト!」「オッス!」
「クマダイー ファイト!」「オッス!」

「集合!」リーダーの声で2列縦隊だ。「◎◎!お前は前に並べ!」その一声で◎◎といわれたボクは最前列に並んで走り始める。ただし、走り始めて1kmも経たないうちに集団から遅れ始める。いつものパターンである。ただ、遅れてもひたすら走るのみである。秋の夕暮れは早い。赤門が見えた頃は、もう午後7時である。真っ暗な中をひた走って武夫原に帰り着く。往復11km走った。ただそれだけだ。中、高校と運動してないボクにとっては、両足はパンパンである。重い足を引きずって下宿に戻る。でも銭湯に行く元気はない。そのまま深い眠りに入る。

今でこそ毎日10kmや20km走っても平気だが当時のボクは、本当に体力がなかった。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-15 23:27 | わが半生記

心機一転 春のやる気 やるしかない!

職場が換わって、あたふたしている毎日だ。施設管理から事業推進に換わった。もともと得意分野への復帰だし仕事のやり方はわかっている。でも、まだまだ慎重に動かなきゃ。昔の経験があるといっても突っ走って落とし穴にはまったら大変だ。右見て左見て前に進もう。

昨晩は、元の仕事場の懇親会であった。過ぎてしまえば、一ヶ月前でも懐かしいものだ。少々のお礼と新しい仕事への抱負を述べる場も設けてくれた。サラリーマン稼業にとって、職場異動に伴う挨拶は大事なものだ。手短にエキスを搾り出していく。3分スピーチの要領だ。挨拶の後のビールは美味いもの。またまた飲み干していく。でも、帰路は寝過ごすことはなかった。地下鉄と宮地嶽線で無事に家に着いた。でも、寝室ではなくテレビをつけたままで深夜までじゅうたんの上で寝てしまった。

ブログの連載も気になるが、バタバタの日々でパソコンに向かう時間がない。そうそう来週は、楽しい、楽しい遠出も待っている。春はのんびりとではなくあわただしく去っていく。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-15 07:32 | 生活の知恵と愚痴

下駄を鳴らして奴が来る ボクの青春 今思い出す(17)

学生生活に慣れてきた秋には生活にもユトリが出来てきた。当時の所帯道具は簡単な衣類梱包箱、布団、勉強机くらいで何もなかった。それでも必需品になりかけていたものがあった。それはカセットテープであった。オープンリールテープからカセットテープという便利なものに移りかけていた。生活費を削って学生生協の購買店でカセットレコーダーを購入したことを覚えている。そしてカセットレコーダーとラジオを繋いでラジオから流れてくる音楽を録音していたのかな。ラジカセが爆発的に売れ始めたのはその数年後だと思う。
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狭い3畳の下宿で長い夜に音楽を聴くのが楽しみだった。また、大学生になったからには本も読まなければならない。高校時代までは教科書程度であまり本を読んでいなかった。ところが大学生になって友達の下宿に行くと沢山の本が本棚に収納されていた。その本に圧倒された。だから、またまた生活費を切り詰めて、またまた学生生協の購買店本屋に出かけては本を購入していた。小さな本棚も買って増えていく書籍を眺めて喜んだものだ。生協の本屋といっても本コーナー的な小さな本屋であったがそれで満足していたもんだ。
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学生生協購買店と学生生活は緊密な関係だった。そして学生生協が入っていた学生会館も密接だった。そこの食堂が学生の食卓だった。学生会館の外にでると新入部員募集等で活気づいていた。当時は学生運動の余韻も残っている時代であり、学生自治会や革マル、民青等の運動体の立て看板も乱立していた。ここがボクが応援団の勧誘に出会った思い出の場所だ。見えている、見えている!この写真の一番奥に陣取っている旗が立っているのが応援団勧誘コーナーだ。何故、この写真を撮って残っているのか不思議なものだ。

by hyocori-hyoutan | 2010-04-09 06:33 | わが半生記