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認知症 誰でもが通る道 そして自分も…

「人権の集い」講演会に行ってきた。最初から真面目に聴いた。テーマは「認知症」であった。グループホームで日々認知症の方々のお世話をしている人のお話だった。認知症は10人のうち3,4人はかかる病気だ。誰が認知症になるかわからない。医者だって、弁護士だって、校長先生だってわからない。原因はさまざまだが、認知症の1割は治癒する可能性はあるが、まだまだ難しい状況みたいだ。その話の中で印象的だった講話を書いてみる。

認知症施設のグループ長が認知症かどうか見極めるための家庭訪問をした。そのおばあちゃんは、家に来てくれたことを喜んでお茶を出してくれると言う。でも台所に入ってなかなか出てこない。様子を見に台所の近くまで行って中を覗いてみる。おばあちゃんは、急須とお茶缶、湯呑みを入れ替わりに持って必死にその動作を繰り返している。頭の中のお茶を入れるという動作の回路が壊れてしまったらしい。最後にはお茶缶を直接、ガスコンロに載せてガス点火してしまった。あわてたグループホーム長はガスを止めに入った。

「お茶を入れる」というひとつの動作の流れ作業は頭の中で壊れているが、忘れてはいけないことは、家に来た人を歓待しようという"おもてなし"の心は健在だと言うことだ。認知症にかかっても、人間が本来持っている優しさを忘れていない認知症の人は多い。行動の表面だけを見ていたら、人としての欠如していると思うかもしれないが、人の尊厳や優しさを持ち合わせている人は多い。

更にもうひとつ印象的なお話があった。家族と一緒に暮らしていても社会性が欠如した老人や認知症の人はいる。逆にグループホームに入所していても社会性を持って生きがいを持って暮らしている人もいる。その違いは、家族との接し方である。家族全員の晴れの舞台である子どもの結婚式、孫の入学式、親戚の死などの葬式に積極的に参加させていたらグループホームに入れて認知症にかかっていても生き生き暮らしている。

反対の人前に出すのが恥ずかしいという思っている家族では、そういう晴れの舞台への出席を拒んでしまっている。人間として生きる以上、そんな大切な晴れの舞台への出席が拒まれて人間らしく生きていけるはずがない。どんなに頭の回路が途絶えて日常生活に支障が生じても、人間としての喜びや悲しみの場への立会いさえも拒まれたら、人間であることを放棄せざるを得ない。人間放棄しなければ生きていけないのである。そして、ますます病状は悪化する…。

いつまでも健康に理性も判断力も持ち続けた。でも寿命がある限り無理である。そのうち呆けるかもしれない。でも認知症になっても人間としての優しさやいたわりは持っている。その尊厳さを優しく見守ってやれる人間でありたい。
by hyocori-hyoutan | 2010-12-09 23:05 | 生活の知恵と愚痴