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理解ではなく 諒解して あるがままに受け入れること

「諒解するということ」について毎日新聞夕刊(12/19)の「憂楽帳」欄に載っていた。その内容は「理解」と「諒解(了解)」の違いについてであり、今の時代は「理解」することばかり尊重されて「了解(諒解)」するということを忘れてしまっているのでは……という内容である。共感したので、ちょっと自分なりの考えを書いてみよう!

時代は21世紀……科学技術等の発展で未知のものについても、その真実がわかリ始めている。宇宙のこと、深海のこと、生命のこと……そして、その真実を全ての人が「理解」しようと努力をしている。そして、逆に、理解出来るものが真実と思い始め、理解できないものは無価値であり間違いだとも思い始めた。ある面では、主体が自分、個になってきた。

しかし、どんなに科学技術が進歩しようとも、理解出来ないものもある。例えば、人間というものをメカニズム的に解明しても、人間の生きる意味などは理解出来るものではない。人間の生きる意味などは観念的なものであり、自然の中で生かされているを思うこと、諒解することである。「諒解」とは、原理原則は知らなくとも、あることに従順に従うことである。

今の世の中、生きる意味を理解しようとするから、頭が混乱し命を無駄にすることも多い。生きる意味は、自然や社会の中で生かされていると諒解すれば、生きることもありがたくなる。主体が自然や社会になってくる。

個も大切であろうが、個の限界や個の小ささも意識して、理屈ではなく全てを受け入れる寛容さが必要な時代かな。
by hyocori-hyoutan | 2006-12-19 23:40 | 世相を斬る