「政治の無知が日本を滅ぼす」の読書感想である。第1章から第4章までは、世界の歴史上の偉人、暴君の物語だ。面白いけど裏付けされた知識がないとなかなかついていけない。ただ、ヒットラーの登場した時代背景、第一世界大戦後の荒廃したドイツでの民衆の心を掴む政治術、そしてフランスやイギリスが厭戦気分の向上がヒットラーの野望について無関心やナチシズムの台頭を考えるのも嫌だったという現実逃避からのものであったのは面白かった。
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そして「第5章近代デモクラシーの政治倫理を理解せよ」につながっていく。普通の人間の政治倫理で政治家を律すると立派な政治家とダメな政治家の区別がつかなくなると定義する。政治指導者の義務は、国民の安全と生活を保障し国の繁栄と外敵から守ることである。さらに民主主義と国民権利を守ること。そのための諸施策を実行することが使命、つまり政治倫理である。少数者の意見を聞くことは大切であるが、多くの国民を守るためには、一般人の倫理に反することもやらなければならない。賭博とか女性問題は一般人の倫理観ではだめかもしれないが、国のリーダーたる政治家が上記のリーダーの果たすべき役割以外のスキャンダル出の失脚は国家のとして弱体につながる。
政治家の倫理と一般人の倫理感の混同が今の日本を覆いかぶせている。

by hyocori-hyoutan | 2019-01-23 20:43 | 読書 | Comments(0)

平等、自由、人権のことばについてのグローバルな視点で述べられている。全般には日本の抱える問題点を多方面から記述されているが、あまりにも莫大なので前記の3つの言葉について自分の備忘録として記載したい。
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平等…「みんながいつもおんなじでなければならない」ことではない。競争開始時点での諸条件の平等(法の前での平等)であって、資本主義社会は自由競争の社会だから、自由競争をくぐり抜けたは不平等になっても仕方ない。いつまでも平等というユートピアの世界はないのだから。
自由…日本人は何にも拘束されないこと、宙に浮いている状態みたいなものを自由と考えている。西欧の自由の発生した背景は、王制など絶対権利がある中で、その権利に左右されない、自分の権利が縛られないのを自由という。つまり、自由というのは、「自分を縛る権限からの自由」であり、激しい争いの中で獲得した権利といっていい。国家権力が強いときにその暴威から個人の権利を守るのが「自由」ということ。だから国家権力を否定すれば「自由」はなくなり社会は不安定化、崩壊の兆しということ。
人権…こどもの人権など、女性の人権みたいな使い方をしているが、そんなのは人権ではなく「特定の属性」に与えられた特権にしか過ぎない。人権というから犯すことのない尊いものと考えがちであり、特権といえば、それを与えてくれた社会に感謝の気持ちが出てくるのかな。人権とは人間として生まれたならば、誰でもが持っているはずの固有の権利にしか過ぎない。それを社会生活上の不平等といったら、人権の安売り、社会の崩壊になる。

このような平等や自由、人権という言葉の混乱を招いてる原因は教育の理念方針がないこと、それを支える倫理、道徳、そして宗教的なバックボーンがないことと結んでいる。日本は再生するには目標が共有できる教育、そして日本人の心の中の宗教を再生することになる。


by hyocori-hyoutan | 2019-01-23 18:00 | 読書 | Comments(0)

小室直樹著「国民のための戦争と平和」を読んだ。昭和56年発行(1981年)発行の本で、今から37年前の本であるが、日本を取り巻く諸情勢や国際情勢の分析に古さは全く感じない。以下、僕自身の備忘録的に書き込んでみる。
・平和を愛した結果が第二次世界大戦になった…ヒットラーの小さな侵略も第一世界大戦後の平和主義(もう戦争を起こしたくない)に陥ったイギリス、フランスがドイツの侵略に対抗する手段を躊躇した。
・平和主義者は念仏主義者か…台風の上陸を防ぐことはできないが、来るな来るなと唱える人も多い。平和主義者は戦争をするなするな唱えていれば平和な状態が続くと思っているのか。台風は自然の産物であり、平和は人間が作りだすもの、だから人間は努力しなければいけない、念仏を唱えていても平和は潰される。
・戦争と喧嘩は違う…喧嘩は動物でも行う。戦争を行うのは人間だけ。戦争の目的は相手を殺すことではなく、お互いのもめ事、紛争を自分の有利なように解決する手段である。だから、この紛争の原因が解決するために戦争以外のものを見つけなければならない。ただ、まだ戦争を超える解決方法が見つかっていない。戦争の火種を棚上げ、じっと我慢しているに過ぎない。
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・国連は150の主権国家の集まりにしか過ぎない…今の世界で法体系や社会規範を取りまとめているのは主権国家であり、国連は主権国家を罰する等の権限はなく、上部組織にはなっていない。
・国連の常任理事国(安全保障理事会)の拒否権をなくせば国連は良い組織になるのか?いや違う…拒否権を取り上げて多数決で国連決議ができるのか、実態を伴うのか?多数決で決められるほど国家間の争いは単純でない。拒否権がなくしても主権国家(150か国)の全員の賛成がなければ結果として執行されない。つまり、5か国の拒否権を取り上げたら加盟国150国に拒否権を与えるようなもの。国の利害を代表している今の国連では無理。
・日本人は国連を自然界のものと考えている。だから無条件に従いがち…国連の構成は主権国家であり日本も一票持ってるのであり、権利を発言すべき。
・この世には正義が150ある。主権国家ごとに利権、国土、文化がことなる、だから正義の名のもとに争いが生じる…正義を上にある規範はまだ見つかっていないが、それを見つける努力は必要である。

by hyocori-hyoutan | 2018-12-21 23:19 | 読書 | Comments(0)

「日本国民に告ぐ」を読み終えた。難しい箇所もあったが、うんうんと頷く箇所も多数あり。戦後のGHQによるWGIP(戦争の責任が日本にある罪悪感を日本人の心の中に植え付けるプログラム)War Guilt Information Programがもたらした弊害が、今日の日本に深く残っている。特にマスメディア(特に新聞)の責任は大きい。戦前は言論統制下であっても戦争遂行の気運を盛り上げ、戦後は上記のWGIPのルールに従い、戦争の責任を日本軍国主義の言葉に集約して世論をまとめた。
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この本は、マスメディアがなぜそうなったのか分析をしている。戦後の日本を覆った無秩序、無規範状態での日本人の全てを受け入れる弱さ、良し悪しの吟味なく過去の行動を繰り返す伝統主義などを素因にしている。また、印象的なことは、マッカーサーが戦後の秩序崩壊の推進役として共産主義者に寛容な姿勢を示し、当時の知識層に深く共産主義が浸透をしていた。しかし共産主義が思ったより浸透しなかったので、その流れが人材がそのまま、WGIPの推進役、反日精神としてメディアの中の中枢部を築いてしまったことを原因としている。
もう一つ、挙証責任についての考えが曖昧な日本人についても述べている。争いが生じたときに、裁判で言えば原告、被告のどちらに挙証責任があるのか。相手を責める一方であればダメ、誰が証明する責任があるのか。言葉を強く言えば相手に挙証を押し付けられるのかどうか…。なんでも阿吽の呼吸で曖昧にしてしまってはいけない。考えさせられることがテンコ盛りの本だった。



by hyocori-hyoutan | 2018-12-20 10:20 | 読書 | Comments(0)

森喜朗著「遺書」-東京五輪への覚悟-を読んだ。無給で献身的にオリンピックに向けて、組織委員会会長として尽力している森喜朗氏の自伝兼オリンピック活動の暴露本である。第一に著者が取り上げたのは、化けの皮がはがれた小池百合子東京都知事への痛烈な批判である。当時のマスメディアの小池氏へのヨイショぶりは僕も感じていたし、攻める相手をターゲットにした悪魔のレッテル化はおかしかった。もう忘れかけているけど「希望の党」のプロモーションビデオのイメージ戦略は、ずっこけたから今見ても面白い。そしてもう少しで総理大臣の椅子を狙う自信家であったが、「排除」の言葉で奈落の底に落ちた。馬鹿なジャーナリストtorigoeのオンゴールにも助けられたけど。
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話は戻して、森さんは、IOCや国際競技団体との協議を重ねた上の施設決定などを進めてきたが、小池さんんの過去の経緯を無視して、自分がお山の大将で変革しようとしたこと全てが暗礁に乗り上げ、元の鞘に収まったが、言い訳をして素直に謝らない小池さんの非難が掲載されている。
この本を通して、マスコミでは悪いイメージでしか語られない森さんが実は、包容力と政治家の信念を持ち合わせていることを初めて知った。がんと闘いながら組織委員会会長として、残りの命を東京オリンピック開催に捧げている森さんに最敬礼である。


by hyocori-hyoutan | 2018-12-14 00:29 | 読書 | Comments(0)

「数学を使わない数学の講義」小室直樹著を図書館から借りて読んだ。数学書というより、数学からみた社会、政治、国際的に行動規範みたいなことを書いてあった。日本が諸外国と違う行動をするのは何故か。ただし日本の行動を非難するのではなく、その分析に鋭さがある。総合雑誌の書籍コーナーに「小室直樹」さんの紹介があった、もうすでに小室さんは他界されているし、本著を18年前の著作であるが、全然色あせていない。
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一つ紹介…
「存在問題」というものがある。「存在しないものに関しては何を言っても正しい」という数学的論理がある。だから議論する前に、そのものが存在するかどうかが大きな問題だ。例えば、「僕の妹は美人だ。今度紹介するね」と言った。そう言われた知人は楽しみにしていた。ところが、後日その妹は存在していないことが分かった。知人は怒った。これは、嘘をついたが、数学的論理から正しいということになる。存在しないものに対して何を言っても正しいのだから。でたらめでも論理の非を指摘できない。同じように、「真の社会主義」について議論しても、「真の社会主義」というものは存在していない。だから、どんなに「真の社会主義」に向けて素晴らしい論を張っても正しいことになる。逆に「真の社会主義」に向けて非の論を張っても正しいことになる。実りのない議論になる。論理を、存在を、定義を明確にしてからでないと実りがないということか。
国会でも不毛な議論が何となくわかってきた。お互いに言いたい放題であり、何を言っても正しい、あるいは悪い状態だ。議論ができない。モリカケ問題などは存在しない、客観的な証拠もない状態での追及では解決するわけがない。
唯一、共通項は「日本の未来を良くする」を「存在」として定義すれば議論できるかもしれないが、やはり無理か。日本の将来の青写真がバラバラだものね。

by hyocori-hyoutan | 2018-12-12 23:27 | 読書 | Comments(0)

9月も後半になった。現職を離れて半年、今はフルタイムからパートタイムの仕事に変わった。そのため、仕事が終わってルネサンスに直行して汗を流しても午後6時には家に着く。結構、自由時間は増えたのになかなか個人的な仕事は進まない。過去の膨大な写真の整理、ホームページのリニューアル。この調子じゃいつまでたっても進まない。先に寿命の方がやってきそうだ。

やはり期限を定めて取り組まなければいけない。それと酒の量でしょう。やる気になっていても焼酎が体に入ってしまうと、PC前に座ることなく、スマホで遊んでベッドで読書して終わりになってしまう。
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そうそう最近の読書量は大幅に増えた。今読んでいるのは百田尚樹氏の「永遠のゼロ」分厚い文庫本だが寝転がって読んでも楽しい。楽しいというか興味を持ってページをめくれる。まだ3分の1だ。久しぶりに読書後感想もブログにアップしよう。
by hyocori-hyoutan | 2013-09-23 07:40 | 読書 | Comments(0)

ジュンク堂に寄った時に積み上がられていた新書の中に「間抜けの構造」があった。ついピラピラとめくる。開いたページが映画の因数分解のページであった。映画監督としての北野武さんは、映画編集の際には不要なシーンはカットしまくる。間延びしないように、できるだけ観客の推理を働かせるようにしている。簡単にいえば、3人(3回)の殺人シーンがあれば、全部を撮るのではなく1回だけ見せて、あとの2回は死んだ顔だけ見せれば3人が殺されたとわかる。そのような撮り方が映画編集の「因数分解」である。
XA+XB+XC=X(A+B+C)となる訳だ。
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その他にも「間」の問題をいっぱい取り上げる。「間」は音読で「ま」、訓読で「あいだ」と読む。誰でも知っていること。そして「間抜け」を「あいだぬけ」と発音せずに一瞬のうちに「まぬけ」と読んで、意味は「あいだが抜ける」ことをさす。これは直訳で、意訳は「人と人とはコミュニケーションを図る上で、お互いを理解し合える微妙な間(何と訳すべきか…)が欠落している。今で言う「空気を読めない」ことを指す。日本人が日本人である証明は「間」が理解できるか、「間」の大切さを認識しているかどうかという。

漫才ではツッコミとボケ。これ掛け合いには「間」が必要である。間が狂うと結果は見えてくる。白けである。落語でも独特の「間」がある。「間」を観客の人と楽しみながら進めていく。スポーツの世界でも「間」はある。相撲の立会いは間を合わせる。野球のピッチャーとバッターは間を外すこと駆け引きだ。これらは、全て時間の間かもしれない。

ビートたけしは、更に空間の間についても言う。そして、人生の「間」はどんな影響を与えるのか、ビートたけしの実体験に基づいて更に深い意見が展開される。

これから先はボクの考えであるが、日本人は一般的に「間」で隠れた感情の表現ができる。だから静かに議論を出来、感情を表に出さずとも阿吽の呼吸で理解し合える。それに比べて、日本人以外、あるいは日本語以外は「間」があまりない。とすれば、「間」の代替手段として、ボディランゲージ、言葉の強さ、言葉の激しさで感情を伝える必要があるのかな。逆に日本人の曖昧さ、外国人にわかりづらい行動は、この「間」の影響かもしれない。

ともかく外国人にとって日本語は難しいが、その意味する「間」まで理解するのは本当に難しいこと。その難しい日本語を操る日本人は、日頃から一種の脳トレをしているとも言える。言葉は文化であることを、この本を読んで再認識した。
by hyocori-hyoutan | 2012-12-26 23:01 | 読書 | Comments(0)

三浦しをん著の「風が強く吹いている」を読んだ。箱根駅伝を目指す若者の物語だ。導入の部分はコンビニから菓子パンを盗む場面から入る。走(カケル)と灰二(ハイジ)の物語。もちろん、箱根駅伝が舞台だから、あと8人の選手が必要だ。個性豊かな8人が描かれている。
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場面は竹青荘(みんなの呼び名はアオタケソウ)に移る。10人の大学生が住む下宿、そして本格的な練習になったら陸上部合宿寮となるオンボロ宿舎である。箱根駅伝どころか、走ることとは無縁な8人である。そしてアオタケ荘の先輩であるハイジと新一年生のカケルが走ることでの結びついていくことで物語は始まる。そのうち、ハイジ先輩の箱根駅伝を目指そう!という一言で、この小説は本題に入って行く。走ることとは無縁な8人、走ることが大好きなハイジとカケルではあるが、それぞれ高校時代に走ることへの挫折を味わっている2人である。

順調に箱根駅伝目指せる訳がない。でもここが小説であり、箱根駅伝に出場しないとこの物語は進まない。だから、予選会では壮烈な戦いを繰り返し、何秒か小差で本選への出場権を得る。そして夢が実現した。でも本選への出場がゴールでないのだ。箱根駅伝は駅伝だから、来年への出場権をタスキリレーの末に獲得するのが最終目標になる。自分達だけの目標(ゴール)でなく、次の世代にどう引き継ぎするのかが大きな試練になる。そこには10人のメンバーそれぞれの思いに差が生まれるが、本選に向けて飛躍的に記録も伸びる。

この本のメーンは箱根駅伝を走る一区、一区の人間模様だ。ペース配分ではない。10人の箱根駅伝のメンバーは秒単位の争いをしているが、心はここまで来た歩みを筆者は描く。〇〇選手は、今、タスキを△△選手からもらいました……。これまでは当たり前であるが、一人ひとりの心の葛藤を描く。ボクもレースや駅伝を走ったことが多々あるが、本番中も同じようなことを思い描くことは多い。「ハレの舞台を思い描いていたが、今がハレ舞台だ。でも、俺ってよく頑張ったなー。ここまで来たものなあ。このまま最後まで頑張ろう!」そんな事を考えながら走る。だから走りながらの回想シーンは面白い。

小説中の箱根駅伝には、さまざまな大学名の学校が出てくる。まずは、主人公は寛政大学だ。多分これは法政大学から取った大学名だろう。動地堂大学は順天堂大学、甲府学院大は山梨学院大、ユーラシア大は亜細亜大、城南文化大は大東文化大だろう。妙に現実と小説の世界が繋がる。

そして、本選では見事、次年度の出場権を得る。現実的でない場面もあるが、小説だから突き進める面白さがある。好きだったのは、走ることの尊厳さを失わずに描き通してくれた筆者の筆力かな。素晴らしい!

そして、最後に筆者がブログで言っていたのは、東体大のカケルと同期の"榊"のこと。筆者「三浦しをん」が「榊の奥の深い描写が出来なかった」という悔い……。でも、榊は昔の陸上一筋の男であり、弱さと強さが同居した普通の男である。普通の男を存在感たっぷりに描くことも、これもまた難しいもの。
by hyocori-hyoutan | 2009-06-27 13:02 | 読書 | Comments(2)

「冬の喝采」黒木亮著を読み終えた。箱根駅伝が終わった頃にインターネット検索で本書のあることを知り、amazonに注文して届いたのは1月下旬であった。それから、ベッドに入ってからの寝る前のひと時を過ごすのに少しづつ読んでいた。
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内容は自伝的なランニング小説だ。北海道生まれの金山雅之(筆者の本名で小説の主人公)は中学時代から陸上長距離が大好きだった。中、高校と地元の学校の陸上部に所属していたが、肝心なインターハイの前には、脚の故障で満足の行く陸上生活は送れなかった。大学は早稲田に進学したが、大学1年間は故障上がりのために趣味程度のランニングしかしてなかった。でも、1年間の休養が脚の回復を生み出し、2年生からは早稲田大学競走部に籍を置くことになった。入部を許可されたのだ。

当時の早稲田大競走部は中村清監督の時代であった。同級生には瀬古利彦選手がいた。もちろん、金山にとっては雲上人であった。黒木(金山のペンネーム)の筆は、陸上競技のストイックさ、奥深さ、過酷さ……を選手だけが分かる視点で書き続ける。黒木は中学時代からの練習日記8冊を大切に保管していた。その積み重ねがあるから、日々のインターバル練習、ロードレース等が克明に記述するとともに、木々の色、風の匂い、土の香りが黒木の脳裏から再現されていく。ある意味では自伝書である。

でも自伝書と違うのは、監督(中村清)、マラソンランナー(瀬古利彦)が出てくることだ。

特に監督(中村清)の人間描写の迫力には一気にページをめくってしまう。自己陶酔型の性格、選手には人生をかけるほどの情熱を求める。練習の前の人生講話は1時間や2時間にも及ぶことがある。監督への忠誠心を求め、周りの人間全てへの感謝の気持ちを強く主張する。そのことへの反発する選手も多い。金山もその一人だった。理不尽な要求にも反抗することもできない。でも、それを上回るほどの人間としての奥の深さもあり、人をひきつける。

ボクがそんな環境であったら、とてもついていけない。大学3年の時は瀬古からタスキを受けて箱根駅伝を走り、4年生でも走った金山……一般入試での箱根駅伝選手は珍しかったのだ。そして、中村監督との確執や陸上選手としての逃げられない故障との戦いが克明に描かれている。そんな生活を逃げ出せばいいのに……と思うかもしれない。でも、そのストイックな生活は、感性を磨き続ける。だからその葛藤は心地よいものだろう。

ボクも市民ランナーレベルでしかなく、学生時代に陸上に打ち込むほどの実力はなかった。でも、「もしも……」の話であるが、その実力があってもこの筆者、黒木(本名は金山)さんみたいな精神力はなかったであろう。実力がなく市民ランナーで生きてきたから、今のボクがあるのだろう。
by hyocori-hyoutan | 2009-02-15 22:37 | 読書 | Comments(0)